0245_初心を忘れると?

人は忘れる

「初心忘れるべからず」という言葉がありますが、初心は絶対に忘れてしまうものという前提で、思い出し続けないといけないと感じています。若い頃に抱いた決断、就職1年目に感じたこと、はたまた結婚の愛の誓いまで、おおよそ人は節目に大きな決断をし、一歩踏み出し、そこで様々なこと感じます。しかし、やがて、若い頃の純粋さが失われたり、仕事もこなせるようになったり、パートナーとの生活があたり前になったりすると、往々にして、初心を忘れてしまうことがあると思います。

初心を忘れるとどうなるか?人は得意になったり、傲慢になったりします。さらには今与えられている環境は当たり前であると感じてしまいます。それに感謝することも少なくなってしまうでしょう。意外と幸せの青い鳥は身近にいるというのに、どこか遠くに探しに行こうとする青い鳥症候群になる人もいます。

僕が忘れていること

僕の場合は、日本へ帰ってきてから、中国に対する情熱が完全に失われてしまいました。20代で中国に行ってやりたいことはやってしまったので、次の目標がないというのは言い訳で、初心を忘れてしまっているのです。さらに帰国後、中国帰りのなんのスキルもない僕を拾ってくれた上司に対しても恩を忘れていることがあります。業務が忙しすぎるということや自分のスキルからずれた業務をしないといけない時、ストレスを感じたりイライラてしまったりしてしまいます。

節目におけるあの時のあの感情、あの気持、あの感謝を忘れてはいけないと思います。それは現状に感謝する心を与え、人をへりくだらせ、人に仕えるということを再び教えてくれるものだと思います。

クリスチャンが奪われた言葉

クリスチャンにおける最大の節目は、洗礼でしょう。イエス・キリストに生涯従っていくという決断を人前・神前でするのです。噂では聞いていたけれど、イエス・キリストは本当に生きていて、僕にも語りかけてくださる。そして、こんな僕でも受け入れてくださっているという温かい優しさの懐に入った時、この方のために生きようと涙の中、決断した記憶が僕にはあります。

しかし、忘れてはいけないのは、「初心は絶対に忘れてしまうものという前提で、思い出し続けないといけない」ということです。聖書には「あなたがたが掘り出された穴を思い見よ」という言葉があります。岩から掘り出される、つまり救われた時、どんなであったか、どんなところから救われたのか、思い出さなければいけないということです。

先日観たYoutubeで中国の説教者がこんな事を言っていました。「あなたが昔、強く心を動かされ、感動し、人生を変えるほどの決断をした聖書の言葉があるとして、もし、今、その聖書の言葉を観ても何も思わないなら、それは、種まきのたとえ話でもあるように、悪魔が御言の種を奪っていってしまったのだ。」

初心忘れるべからず。

義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ51:1