1340_ロゴスとレーマ

すべて神の霊感を受けて書かれたもの

聖書の御言はすべて神の霊感によって書かれたものだと書かれています。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテへの第二の手紙 3:16

確かに筆を取って書いたのは人間です。しかし、ゴーストライターならぬホーリースピリットライターなる存在があり、神のご意志のままに書かれたものだということです。それである以上、例えば「これはパウロの考えが強く入りすぎている!」などと言って、引いたりすることはできません。また、あるいは誰かが言ったことを足したりすることもできません。

神様からのラブレター

もちろん、聖書を読む時は当時の時代背景や文化的要素を各種文脈、聖書全体の一貫性を無視する読み方をすると間違って理解する可能性があります。だからこそ神学というものが確立されていて、学ぶ必要があるものなのだと思います。

その一方で聖書は神様からのラブレターとも言われています。確かに聖書は全人類に書かれたものですが、霊的な領域において、御言に聖霊が働かれて神様が個人的に直接語りかけてくださっているという場合もあります。

御言を通して直接語りかけてくださる体験

ペンテコステ派では、聖書の言葉をロゴス、そして直接御言によって個人的に語られたことをレーマと言ったりします。特にこのレーマに関しては神学上いろいろと議論されているみたいです。レーマを強調すればしすぎるほど、聖書のほかの箇所が軽んじられてしまうという側面があるのかと思います。

僕はこのことに関して何が正しいのわかりません。しかし、確かに神様が御言を通して直接語りかけてくださっていて感動するという体験は少なくありませんでした。もちろん、そういったものは主観です。だから、主観を強調するわけにはいきません。しかし、個人的な体験はとても大切です。

個人的な主との体験

なぜなら、使徒行伝においてパウロは主に3回自身の救いの証をしていますが、いずれも自身の個人的な主との体験のことを証しているからです。救われる以前、救われた時に体験、そして救われた今はどうなっているのかです。

パルロは博学で論理的で知識もあったため、もっとロジカルに反論できないように福音を客観的に語ることもできたと思います。しかし、彼にとっての救いとは個人的なものであり、主観的なものであり、それが事実であり真理であったのです。

神様は僕たちを愛してやまないお方

僕は情けないながら聖書を読んでいて教えられる日もあれば、ただ読んで終わってしまう日もあります。しかし、時に神様が御言を通して個人的に語って下さる日もあり、その日はどんなことよりも嬉しくなります。

主観的な体験を強調しすぎることに関しては様々な弊害があると思います。しかし、今も生きている神様が個人的に語り掛けてくださることはとても当たり前だとも思うのです。なぜなら、神様は僕たちを愛してやまないお方だからです。

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