祈りとは?
最近、アンドリュー・マーレー著の「とりなしの祈り」を通勤中に読んでいます。まだ半分も読んでいないのですが、祈りについて多くの学びを得られています。僕にとって祈りとは幼い頃から身近な行為でありつつも実はわかっていないものだったのかもしれません。そもそも日本人は祈る民族だと思っていたのですが、この認識も違うと思うようにもなりました。
おそらく多くの場合、日本人にとって祈りとは神社で手を合わせて数分祈ることが多いと思います。時々、町中にある小さなお地蔵さんに手を合わせて祈っている方もおられます。八百万の神の信仰がある神道では祈りは日常的なものです。
祈りの習慣
しかし、たとえば、ヒンドゥー教やその他東洋の宗教における長時間の祈りは日本人に馴染みが無いものなのかとも思いました。(もしかしたら、仏教などで数時間祈るということもあるのかもしれません。)
以前、インドの聖人と言われているサンダーシングの著書を読んだ時にこのようなことが書いてありました。「無宗教からキリスト教になった人よりも、もともと祈りの習慣があるヒンドゥー教から改宗した人のほうがよく神に祈る」
長時間の祈り
これはそのとおりだと思います。一般的な日本人は日常に神道の思想が考えが入り込んでいるので、日常的に短く祈る習慣はあるでしょう。しかし、ことに黙想といったレベルで、誰もいない部屋に閉じこもって数時間静かな時間神と向き合うという習慣はないと思いました。
これは現在の僕の理解におけるものですが、キリスト教の祈りとは、「祈りの中でキリストとの長時間愛の交わりを通して聖霊によってキリストの思いと一致する。そして、神の御心が自分の願望とが一致し、願い求めるものは何でもきいてもらえる状態になる」というものです。
時間を捧げることは自分を捧げること
あえて、長時間と書いたのは、日本人のイメージにある祈りとは数分程度のものに限定されるかと思ったからです。数時間とは長く思えますが、テレビや映画やYoutubeやゲームだったら、何時間でも見たりプレイすることができます。なので、決して長いものではないのです。
もちろん、祈りが長ければ長いほどいいというわけでもないと思います。しかし、時間はその人が持っている最も価値あるものの一つであり、その人自身でもあるからです。時間を捧げるということは自身を捧げることに繋がります。
そして、神の御心と自分の心が一致している時に初めて「とりなしの祈り」ができるのだと思いました。