1318_クリスチャンは恐怖をおぼえるか?

悲観主義者を内包した楽観主義者

誰が言った言葉かは覚えていないのですが、こんな言葉を聞いたことがあります。「ただの楽観主義はであってはだめだけど、悲観主義者を内包した楽観主義者なら良い。」

僕はこのように解釈しています。「なんでもかんでも心配しすぎるのはよくないけれど、それに対して準備や用意をした上で、やることはやったからあとはなるように任せる。」そのような心持ちでいられるのであれば、素晴らしいことだと思います。

悲観主義者と楽観主義者

何の備えをせずに地震なんて大丈夫と思うのがただの楽観主義者です。一方で地震を恐れ入念な準備をしつつもいつもその恐怖に囚われているのが悲観主義者です。

最期に悲観主義者を内包した楽観主義者とは、地震は恐ろしものだと認識して入念に準備にする。ただし、それ以降は天に任せてあとはなるようになると考える人です。

人類がそれらに対して無力

僕自身を言えば、僕は完全に悲観主義です。イエス様に救われる以前はあらゆるものが怖かったと記憶しています。しかし、イエス様に救われて以来は、確かに悲観主義者的側面は残ってはいるものの、悲観主義に囚われなくなりました。

例えば、僕はよくドキュメンタリー番組を見るのですが、ちょっとでも油断すると恐怖に囚われてしまいます。特に巨大地震、気候変動、戦争などのドキュメンタリー番組は人類がそれらに対して無力であることを伝えます。

恐怖に囚われる時

そういった番組を見すぎたりすると、心が恐怖に囚われてしまうのです。僕は確かにイエス様によって救われていますが、一時的に恐怖に囚われることがあります。それは事実です。しかし、聖書に書かれていることは真理です。

恐怖に囚われる時、僕はイエス様に祈ることができます。その祈りは決して「怖いよ。怖いよ。神様助けて。」というようなものではありません。「イエス様がいるから絶対に大丈夫。」というものです。

キリストにある平安主義

本当にイエス様が共にいてくださるなら、そこに御国がきます。それは平安です。イエス様がおっしゃったように、イエス様が与えてくださるのは、この世が与えるようなものではありません。

特に昨今は人々を不安にさせるようなことが多いように感じます。それらを見てたとえ恐怖に囚われることがあったとしても、イエス様にあって平安でいることができます。それは決して楽観主ではありません。キリストにある平安主義です。

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