1319_自分に対して強い嫌悪感を抱いて生きてきた

強い嫌悪感を抱いて生きてきた

先日僕は自身の傲慢さを見てクリスチャンとして最底辺と書きました。これまでもこのブログで僕は自分のことを社会不適合者だとか資質、品性、性格すべてにおいて終わっているというようなことを書いてきました。

その理由としては、僕は昔から自分に対して強い嫌悪感を抱いて生きてきたからです。だからこれらの表現は決して誇張などではなく本当にそう思っているから書いています。

臭い物に蓋をして体裁だけと取り繕う

しかし、ある時、ちょっとした知り合いからそういうふうに自分を卑下するのはよくないとメッセージをもらったことがあります。確かに読み手からしたら、不快に思うだろうとも思いました。また自分を卑下することを文字で書いてしまうと本当にそうなっていくというような側面もあるのかもしれません。

ただ僕は一向に自分を卑下することをやめませんでした。それが僕がやばい人間であることを証明しています。そして、本当にこれが自分のありのままの姿だからです。確かに読み手は不快かもしれませんが、臭い物に蓋をして体裁だけと取り繕ったことを書きたくなかったからです。

一貫性のない生き方とは

この世界で生きていくには、建前と本音、パブリックとプライベート、ウチとソトを使い分けるのがきれいな生き方です。しかし、クリスチャンとして生きようと思えば、神様の前にはウチもソトも建前も本音もありません。

たとえ、神様の前では「感謝します」と言っていても、ある人の前で心の中で「うっとおしいな」と思ったらその時点で一貫性のない生き方になってしまいます。ようは、一貫した生き方をしようとすれば、ウチソトの使い分けはできなくなると考えています。これは完全に持論です。

社会不適合者ではなくてなんだろう

ともっともそうなことを書いていますが、実を言えば僕は非常に不器用な人間なので、そのように使い分けるという高度なことがそもそもできません。だから、生きづらさとか自分に対する強い嫌悪感などを抱いて生きてきたのだと思います。使い分けができないので顔に出るタイプの人間です。そういった人が社会不適合者ではなくてなんだろうと思うのです。

しかし、僕はこのような非建設的なことを書いて終わりたいのではありません。僕を引き上げてくださるお方がいるということを強調したいです。たとえ、自分はだめだと思っていても、僕がだめであることを知っていて、僕がちりであることをご存じで、そうであっても愛して関わってくださるお方がいるということです。

イエス様の慈愛と博愛

むしろ、イエス様の愛を知らなければ、自分に対する強い嫌悪感は自分を破滅に追い込んでいたと思います。しかし、イエス様の慈愛と博愛は、まだ罪びとであった時の僕にも示されたのです。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマ人への手紙5章8節

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