1179_霊的高慢からくる神との交わりの喪失という荒野

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人生の荒野

昨日に続いて、人生の荒野での体験を書きます。1年の浪人生活を経て本当に神様のおかげで大学に入学できました。しかし、それから2年後に再度人生の荒野に行きます。それは中国留学でした。当時のことは何度かブログでも書いていますが、僕の霊的な状態はかなり悪くなっていました。早朝の新聞配達で肉体的にも限界にきてた時期でした。

信仰面で言えば、当時は生きた信仰生活をしているのではなく、宗教生活をしていました。生きたイエス様との交わりではなく、ただただ目の前にある奉仕を次々にこなしていくというような生活でした。

いい人であるべきと思って仮面をかぶるようになっていたのです。また、奉仕における神の力強い働きばかりを追求して人からどう見られるか?ばかり考えていたのだと思います。これはおそらく、ペンテコステ派あるあるなんじゃないかと思います。ようは霊的高慢からくる神との交わりの喪失です。

自分が分裂していた

そんな状態での中国留学でした。あまり当時の状況をうまく書けないのですが、よくある言葉で言えば「自分を失っている」です。他の言い方では、自分が分裂していたように思います。留学に来ているのにほとんど部屋に閉じこもって授業に行かない期間もあったので、おそらく、うつの症状だったのかと思います。

ひとりで朝早く起きて、学校内の人気のいないところで祈るなどの行為もしていたのですが、全くといっていいほど心に平安がくるどころか、ますます、神さまを憎むような状態になっていたと思います。

「なぜなんですか?僕は祈ってるじゃないですか?なぜなんですか?なぜ心に平安がこないのですか?なぜですか?なぜ僕は霊的にブレークスルーしないのですか?」そんな問いかけを神様にしていた時期でした。

霊的な高慢の恐ろしさ

自分がイエス様に出会ったあとに、暗闇の時と思える時があったとするなら、まさにこの時がそうでした。光を求めているのに闇、心は暗く、とても生きたキリストと生活していると思えない目をしていました。

この時に霊的な高慢の恐ろしさを知りました。僕は完全には理解できていませんが、おそらく、旧約聖書に出てくるサウルと同じような状態であったのではないかと思います。神様に救われた体験もある。神様の力強い働きもしっている。しかし、霊的な高慢からくる闇は、救われる以前感じたものよりも恐ろしく暗いものであったと感じています。

悔い改めるなら

もう二度と同時の状態に戻りたいとは思いません。しかし、その時の体験が今の僕を形作っていると言えます。

人生での荒野は確かに生易しいものじゃないかもしれません。しかし、もし、へりくだるならば、もし悔い改めるならばイエス様は何度でも憐れみを垂れてくださり、優しい顔で暖かい腕で抱きしめてくださるお方です。そして、悔い改めに導いてくださるのも神様です。

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