1178_人は荒野で霊的に成長できるというのは恐らく間違いない

霊的な成長

高校2年生の時にイエス様に出会う体験をしてから完全に価値観が変わりました。そのすべてをここに書くことは難しいのですが、特にこれまで全く意識することがなかった霊的な成長において目指すものができたのは大きな変化でした。霊的な成長といっても、決して祈りや御言による修行的側面ではありません。

もちろん、それらも大切です。しかし、僕が思っている霊的な成長とは荒野で行われるものだと思っています。たとえば、モーセがエジプトを終われて40年間荒野で羊飼いとして生きたことやイエス様が40日間、御霊に導かれて荒野で試みを受けられたことなのです。

浪人生活という荒野

実際机に向かって聖書を読んだり御言を暗唱したりしたりすることよりも、自身の体験によって血肉や心に刻みこまれた御言は一生もので決して忘れることができません。人生における過酷な体験の中でイエス様を求めて、そこで、生きたキリストを体験し、慰められたり、平安を与えられる体験は一生ものです。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
詩編119:71

高校卒業後、すぐに浪人生活という荒野での生活が始まりましたが、今から思えばあの浪人生活ほど恵まれた生活はなかったのではないかと思うことがあります。生まれて初めて社会のどこにも所属していない状態は不安と恐れしかありませんでした。

勉強すらイエス様が必要

今思えば人生はいつからでもリカバリがきくと理解できますが、当時は受験には人生がかかっている。そして失敗したら終わりと思っていました。そんな追い込まれた状態で僕は毎日必死でイエス様を求めていたと思います。

勉強もイエス様がいないとできないと思っていました。毎日、一人部屋の中で勉強する前に、「イエス様がともにいて下さらなければ勉強すらできません。」と祈っていました。普通の人は自力で勉強するものだと思いますが、僕にはイエス様がどうしても必要でした。

今はどうですか?

ある人は、「そんなことくらい祈らずに努力して勉強しろよ」と思われるかもしれませんが、僕にとってそれが全幅の信頼だったのです。むしろ、イエス様がいればすべては安心安全だという確信があったのです。

今、大人になった僕は思います。僕はできるようになったからイエス様を求めないのだろうか?

イエス様が「〇〇は自分でできるようになったら私をもとめなくなったのですか?」という声が聞こえる気がしました。

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