1180_ランニングをすると整えられるのはなぜなのか?

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緊張状態からの過度な緩和

先日2か月振りにランニングをしました。数年前に「スマホ脳」という書籍を読んでから、比較的積極的に運動するようになりました。現在はほとんど筋トレがメインでランニングは補助的にしています。多くのトレーニー(筋トレする人たちのこと)は時間の長い有酸素運動は筋肉を分解するので推奨していないのですが、やはり有酸素運動は気持ちいいです。

運動するとセロトニンやドーパミンやエンドルフィンなどの神経物質が分泌されるので、それだけでも気持ちがいいものです。しかし、ランニングは一定時間の過酷な状態からの解放という緊張状態からの過度な緩和を思いっきり味わうことができます。

身体的刺激によって断ち切る

ですので、毎回走る前に今日は〇〇km走ろうというのは決めません。むしろしんどくなって「きつい」と感じて、そこからさらに20%くらい多めに走るようにしています。今もそれほど長くは走れませんが、調子がいい時で10km、平均して1回あたり6~9kmほど走っています。

ランニングがいい側面は他にもあります。それは脳の悪い思考を身体的刺激によって断ち切るというものです。これは修行僧が滝に打たれるということからも、一定の効果があるのではないかと思っています。

日常生活の風景から抜け出す

僕は仕事で考え事がある時、失敗した時、自分が嫌になった時などは積極的にランニングするようにしています。まず身体的刺激を与えることによってて意識が身体に集中されます。それによって、いわゆる「整えられる」状態になります。

またランニングは一人で行うので、走っている時や歩いている時などに思いを神様に集中もさせることができます。毎日毎日繰り返している日常生活の風景から抜け出してロケーションを変えて神様に思いを馳せることは非常に重要だと思っています。

ある程度の効果のみ

しかし、このような身体的刺激から人間の欲望すべてを断ち切ることはできないことも事実です。むしろ、ある程度の効果があるだけだと思っています。なぜなら、聖書の登場人物でかつてストイックの代表格であったパウロがそのように言っているからです。彼は聖書で明確にこのように言っています。

これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。
コロサイ 2:23

身体的訓練や刺激からは完全に人間の欲望をたつことはできいのです。完全に自分を開放してくれるのはイエス様の十字架のほかにありません。それを大前提としたうえで、精神、霊魂、身体が相互に影響し合って豊かな人生につながるように、適度な運動も人間には必要なんだと思っています。

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