玩具に書いて会った文字
先日ある玩具に書かれている文字に目が留まりました。そこには「PlanToy」と書かれていました。それは木でできた玩具だったので、おそらく植物であるPlantと玩具であるToyをかけたものだと思われます。それを見た時に思いました。木が切り落とされたとえ、命がなくなったとしてもそれは用いられるということです。
Plantと聞くと生命のある植物をイメージします。しかし、生物学的な生命を失ったとしても、そこには玩具になるという別の役目が与えられているのが素晴らしいと思いました。
子孫繁栄が目的
ともすれば、人は自分の命に固執しがちです。しがちというより、固執するのが当然だとも思われます。なぜなら、人間は生物として子孫を残すために生きていると思われているからです。その思想によれば、自分の命こそが大切であって、その命から子孫が繁栄されることを最大の目的とします。
だから、自分の命がなくなって、それが別の形で役に立つということに拒否反応を示します。それが聖書でいう肉の働きだと思います。
新しい命に生きる
しかし、聖書の教えは、私たちの命はキリストと共に葬られたとあります。もし、自分の命を捨てることができるなら、そこに新しい命が宿ります。それは、木の玩具と同じように、木として命を繁栄することはできないかもしれせんが、別の形で役に立つということです。
新しい命とはキリストの十字架を受け入れ、かつ、キリストに繋がり続ける時に与えられ続けます。別の言葉で言い換えると、聖霊に満たされ続けている状態かもしれません。もし、自分を捨てるならば、新しい命に生きることができるのです。まさにこのキリストの言葉のとおりです。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
マタイ16:24-25
一時的なもの、頼りないもの
もしかしたら、「いや、俺は自分の命が大切だから、キリストの命はいらない」とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、この地上での繁栄になんの意味があるのでしょうか。歴史の教科書を見れば、過去様々な生き物が絶滅していることを知ります。この地上での繁栄に望みを置くことはとても頼りないことです。
しかし、見えないものに目を注ぐ生き方をすれば永遠の命が付与されます。一時的、かつ頼りないものにのぞみをかけるよりも、永遠かつ、信頼できるものに望みを置くほうが絶対いいと思います。