父について
先日2ヵ月ぶりに実家に帰りました。昨年父が倒れてから両親の生活環境が大きく変わりました。父は大好きで生きがいだった仕事を辞め、車の運転も辞めました。さらに以前の生活には戻れないと医者から告げられ、今日ある命が明日あるとは限らないという宣告も父にとっては非常な悲しみだったと思います。
生命の危機だけでなく、人生の生きがいが奪われることは自分自身の存在の危機と言っても過言ではないと思います。それはクリスチャンとて同じでしょう。存在の危機は信仰の危機です。それは危機に直面した人にしかわからないことです。
父の信仰
しかし、そんな中で、神が父と共におられるということが父を見ていてわかりました。一回目の脳梗塞から、わずか数か月で再梗塞。もうだめかと思いきや、けろっとしていて、相変わらずよくしゃべるし、よく動くし、散歩にも行けるまでにかいふくしました。
先日は、父と一緒に歩いて買い物に行きました。父と二人っきりで買い物に行くのはいつぶりだろうと思いました。子どものころは大きく感じた父の歩幅、今では父の歩幅を小さく感じ、同じ歩幅で歩いていると時の流れを感じました。人の一生とは異常なほどまでに短いと感じました。それは永遠に存在すべき魂が有限の肉体をもって存在しているからでしょう。
両親の祈り
実家に帰宅後、朝6時半に起きると既に父も母も起きていました。僕がトイレに入って用を足していると、二人が食卓について、祈っている声が聞こえました。きっと食前の祈りでしょう。まず父が祈っています。よくは聴き取れなかったのですが、3分ほど祈っていたので、両親が心を合わせて祈っているのだと感じました。
その後、母が祈り始めました。祈りの内容は聴き取れなかったのですが、僕は祈りが終わるまでトイレから出ることができませんでした。祈りが終わった頃、水を流して、何もしらなかったようにトイレから出てきました。僕も同じようになりたいと思いました。
両親のようにありたい
自分の中で、大切なことはわかっている。しかし、それを実行するのは気恥ずかしい。いや、今じゃなくていいだろう。と言って僕が日々言い訳をしています。今日あるものが、明日はなくなるかもしれないというのは誰にとっても同じにもかかわらずに。
この地上で寄留者、旅人として生きている以上、最も大切なことから目を離さず実行して生きていきたいと思いました。