0687_罪を積んでいたら詰む

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以前と比べてどのくらいましになった?

昨日は以前と比べてだいぶましな人間になったと個人的には思っていますが、それでも、まだまだ大量の砕かれないといけない肉が自分に存在しているため、それを聖霊の力によって無力化していく必要があるということを書きました。

僕の以前の生活はどんなであったのか、それは僕自身が書かなくても聖書が完璧に書いてくれています。

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
テトス3:3

以前の生活

この聖書の御言が忠実に以前の僕を書いてくれています。僕は無分別で不従順で様々の情欲と快楽との奴隷になって、悪意と妬みとで日を過ごし、人に憎まれ互いに憎み合うような生き方をしていました。

特に思春期の頃から高校2年生くらいまでが、こういった生き方のピークだったと思います。気分屋でいつも不機嫌で、イライラしていて、厭世的で悲観的で不平不満ばかり言いながら生きていました。

ところが…

ところが、高校2年生の夏頃にイエス・キリストに出会ってからすべてが変わり始めました。それも聖書が完璧に書いてくれています。

ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。
テトス3:4-6

本当にこの通りです。驚愕すべきことは僕がまだ罪にまみれていた時にイエス・キリストは僕を愛してくださっていたことです。性格がよくなったから受け入れてくださったのではなく、性格が悪く誰からも嫌われているような人間で会った時に受け入れてくださったのです。

罪を積まない生き方

もし、あの時、罪を赦されて、神に受け入れられている体験をしていなかったら、今はどのような人間になっていたのでしょうか。間違いなく無分別で不従順で様々の情欲と快楽との奴隷になって、悪意と妬みとで日を過ごし、人に憎まれ互いに憎み合うような生き方をしていたと思います。

しかし、そのような生き方も限界があります。間違いなく、あの時罪が赦されていなかったら、僕は人生に詰んでいたと思います。なぜなら、罪を積み続けると、それが複利で波及していき影響の範囲が大きくなっていくからです。

主の恵みが積まれていく

だからこそ、罪はできる限り早い段階で、赦してもらうここしたことはありません。「今日」という日に主の赦しを受け入れて、主と共に生きる選択をするのです。そうすれば、罪を積むことなく人生に詰むことなく、主と共に主の恵みが積まれている生き方になると信じています。

おっさん
■罪を積む生き方ではなく主にあって恵みを積んでいただく生き方ほど幸いなものはない

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