自分の力で生きる信仰生活
昨日僕は、自分の力で生きる信仰生活は無駄だと書きました。確かに聖書にあるとおり、自分に死んで自分の十字架を背負って主により頼んで生きる信仰生活には意味があると思います。しかし、自分の力で生きる信仰生活には何の価値もありません。それは自己満足の信仰であり、力のない信仰であり、聖書の価値観に生きていると思い込んでいるだけの最も憐むべきものなのだと思います。
僕はこのブログでは自分を飾ることもしてこなかったし、ありのままを書いてきました。しかし、実際、教会生活や様々な場面においては「大人のクリスチャン」を演じていたのだと思わされました。もう子供のクリスチャンじゃないから大人のクリスチャンらしく言動を慎み、行動しないといけないと思っていました。
信心深いように生きること
実際、人は社会で生きている以上、そういったことを要求されます。そして、そのように振る舞わなければなりません。しかし、僕はクリスチャン生活において、そのように信心深いように生きることに疲れてしまいました。
なぜ疲れてしまったかというと、主により頼んで生きていると思っているだけで実際はまだまだ自分の力で生きていたからです。
主が心に真実を求められる
僕が願うことは一つです。主が心に真実を求められるように、すべての状況、場面において魂と心と体が一致することです。ある場面ではAと言っていたのに、別の場面ではBというような一貫性のない生き方を主の前にしたくないのです。
たとえ、聖書を読んでいる時や祈りの時は信仰深い告白ができていたとしても、仕事の時にも同じ告白で生きることができなければその告白は魂と心と体が一致していないと思うからです。
心に真実さがないこと
具体的に書けば朝のデボーションの時に、「隣人を愛します。」と告白していても実生活の様々な場面でそれができていないのであれば、それは心に真実さがないことと同じだと思っています。
たとえば仕事において、自分の仕事のペースが崩されてイライラしてしまって協力的にできなかったり、忙しい時に急ぎの業務が入ったら心が乱れてしまいます。街を歩いていても、この人邪魔だなぁとか思ってしまうことがあります。僕はそういう自分がとても嫌です。
そう思うと、朝のデボーションに何の意味があるのか?というのが最近の僕の疑問になります。そのような状態にいるのは、自分でもわかっていて、自分の力で歩んでいるからです。
わたしを救ってくださるお方
僕はここでネガティブな自分の感情を書いて終わりにしたいのではなくて、主が必ずここから救い出してくださるということも信じています。それは聖書にもこのようにあるからです。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
ガラテヤ7:25