若いころに主を知る
今はエレミヤ書を通勤時に通読しています。エレミヤは涙の予言者と言われています。彼こそが神が遣わした預言者であるにもかかわらず、同胞たちは自分勝手に都合のいいことばかり伝えてくれる預言者を信頼し、エレミヤに対して激しく抵抗しました。エレミヤは同胞から激しい迫害を受けるにも関わらず、彼らに対する救いの情熱を決して失わず、涙をもって神様に懇願するのでした。
エレミヤはかなり若いころに神様に預言者として召されたことがわかります。
その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。 しかし主はわたしに言われた、
「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。
だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、
あなたに命じることをみな語らなければならない。
エレミヤ1:6-7
また、若いころから神の言から霊の糧を得ることを喜びとしていたようです。
わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。
万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって
となえられている者です。
エレミヤ15:16
子供の救いのために
今僕は子育ての最中ですが、こどもの救いを最優先で祈っています。さらにすでに良き配偶者が与えられるようにも祈り始めています。信仰に関してはその子が神様に直接出会わない限り本物にはなりません。教会に毎週来ているからといって信仰があるとは限らないものです。
しかし、人生のどこかのタイミングでエレミヤ書にあるように、本人が主体的に能動的に自主的に主を求めるようになるならば、主は必ず出会ってくださるお方だと信じています。なぜなら、エレミヤ書にこのように約束されているからです。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 29:14わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
エレミヤ書29:13
「時」は時に引き出さないといけない
こどもの救いに関しては確かに「時」があります。しかし、「時がある」という言葉は正直諸刃の剣だと思っています。率直に言えば、現状に対して「時がある」と言って、先延ばししてしまう危険性があるからです。僕の理解では時には「神の時」は引き出す必要があると思っています。
アブラハムやモーセやエレミヤがとりなしの祈りをして神の御心を変えたように、僕も子供の救いのために今から救いの時を引き出す祈りをし続けたいと考えています。むしろ、時は縮まっています。だからこそ、悠長なことを言わずに、救いを最優先で祈るべきだと思いました。