1104_おなかが痛い時はすごく信仰が働くのに自分の悪癖になると…

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知識と信仰

クリスチャンであれば誰でも「主には何でもできないことはない」という知識をもっています。しかし、その知識があるからといって、それが自分自身や自分の身の回りに主の奇跡が起こるか?といえば決してそうじゃありません。

聖書を見ると知識が大切なのではなく信仰が大切だということがわかります。イエス様が地上におられた時代、知識を持っていた律法学者やパリサイ人たちの多くは神の恵みにあずかることができませんでした。

その一方で知識はもっていませんでしたが、信仰をもっていた人たちには神の奇跡を大きな恵みが現れたのです。

信仰が働くか

神様に関する知識を信仰に応用するのは簡単なようで簡単じゃありません。自分のおなかが痛くなったときはすごく信仰が働くのに、いざ自分の長年の悪癖になると急に弱気になったりするものです。

僕にはずっと変えられないといけないと思っていることがあります。信仰を働かせてチャレンジしたこともありましたが、何度も失敗してきました。そうすると、いつのまにか、長年鎖でつながれた象のように最初は激しく暴れるが、最後は鎖を外しても逃げようとしなくなる如く、全く「もう無理だ」とあきらめて思うようになったのです。

なんなら、パウロに弱さが与えられたように、これは僕に与えられた弱さなのだと曲解して納得するまでになりました。これは非常に危険な信仰態度です。

新しい創造のわざは起こっている

しかし、そのまま時間が過ぎて、主は何度も僕にチャレンジを与えてくださいました。主に喜ばれる毎日を送りたい。この世では寄留者であり、旅人であるから永遠に残ることにコミットしたいという祈りを主は聞いてくださったように思います。

そのような祈りをする中で感じたことは確かに主は僕を造り変えてくださっているということです。それは新しい創造のわざだと思うようになりました。確かに僕は長年の悪癖を受け付けない者になりつつあると確信しました。

自分の言葉を信じるのではなくて、絶えず信仰の完成であり、導き手である主を見上げ続けることが唯一僕にできることなんだと思いました。そうすれば、聖書に書いてあるとおり新しい創造のわざが心のうちから起こってくると信じます。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
コリントⅡ5:17

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