1103_大便を人に差し出す行為に相当することをしていないか?

恵みの時代は楽?

新約聖書の恵みの時代は旧約聖書の律法の時代よりも生きやすくなったと思うことがあるかもしれません。しかし、実際は律法の時代よりももっと厳しくなっています。なぜなら、律法では人を殺してはいけないと戒められていましたが、恵みの時代はキリストにあって、心の中で人に対して怒る者もしてはいけないと戒められているからです。これが新約聖書の時代の神の義の基準です。

しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
マタイ5:22

心に焦点が向けられた

旧約聖書の律法は新約の時代のひな型です。神の御心はキリストにあって、この時代に明確に現れました。そして、キリストの言葉は「義人はいない」ということをすべての人に悟らせます。また、キリストの言葉はキリストの十字架以外に救いはないということも人に悟らせます。

旧約聖書では外に現れる行いに重点が置かれていましたが、新約の時代は心に重点が置かれています。聖書にもこのようにあります。

しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
エレミヤ31:33

つまり、自分の外に存在する律法を守らないといけいないというのではなく、心のうちからそれを守りたいと思わせる時代が今の恵みの時代なのです。

心から出るもの

だから、守らないといけないのは心の中なのです。

油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言4:23

新約の恵みの時代の大前提は心を守ることにあります。しかし、心を守り切れなくなる時があります。それはどんなときでしょうか。それは心に思っている悪いことやけがれたことを口から出した時です。あるいは、文字で書いてしまった時です。その時に自分がさらにけがれるだけでなく、周りも汚してしまう事態になります。イエス様もこうおっしゃっています。

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。
マタイ15:11

不平不満や悪い思いは大便と同じ

それは具体的にどういうことでしょうか。それは言葉を選ばずに書くとこうなると思います。心に思っている苦々しい思いや不平不満を誰かにいうこととはつまり、腸に溜まっている大便をその人に突き出す行為となんら変わりがないということです。たしかに腸にある大便も同じように汚いです。しかし、フン詰まりにならない限り腸にある分にはそこまで悪さはしないのです。それは、定期的に誰にも迷惑をかけないように排泄するからです。

描写が直接的で恐縮ですが、イエス様はいわばこのような罪の汚物を身代わりに背負ってくださったのです。そして日々生活する中で、腸にフンが溜まってくるように心にも悪い思いやけがれた思いが入ってくるかもしれません。しかしそれをイエス様のところにもっていくならイエス様は喜んでその心をきれいにしてくださるということです。

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