1303_自分教、他人教

そっちやったんですね~

先日、散髪に行った時に美容師の方に「今日は何されていたんですか?」と聞かれて「教会に行っていました。」と話をし、しばらく教会について話をしていました。

この美容院には2年近く行っているのですが、確かに教会の話はしたことがなかったと思いました。話の途中でその美容師の方は「そっちやったんですね~」と言っていました。このそっちには特に深い意味はなく、軽い感じのイメージで話されたもので、僕も「そうなんですよ~」と話をしていました。

十把一絡げに宗教

おそらく一般的な感覚で言えば、特定の宗教に属していない人からすれば、仏教も創価学会も統一教会もプロテスタント教会も、十把一絡げに宗教とひとくくりにしている人が多いのかもしれません。

もちろん、それぞれ信仰している人からすると、「他の宗教と一緒にするな!」と言いたくなるのかもしれないのですが、世間一般的な感覚からすれば「宗教」というものになるのかなと思います。

すべての人が何かを信じていきている

しかし、僕が言いたいことはすべての人が何かを信じていきているということです。決して人間を超越した神という存在を信じる人たちだけが宗教に属するわけではありません。すべての人は、わざわざ、〇〇教と看板を立てているわけではないですが、必ず何かを信じて生きているものです。

抽象度をぐっと上げると、多くの人は自分を信じるか?他人を信じるか?の二択で生きています。もちろん、これらいずれかが100%に寄っているわけではなく、あることに関しては自分を信じて、あることに関しては他人を信じるということがあります。僕からしたらこれらも宗教です。自分を信じる教、時には他人を信じる教です。

さらに日常生活に落とし込んでいくと、たとえクリスチャンであっても何かを信じて生きています。政治、経済、金融、文化など、これが正しいと思う方向へとひっぱっていかれます。具体的に書けば民主党か共和党か、ワクチン反対か賛成か、円安ドル高を信じているか?円高ドル安を信じるか?これは食べるべきか食べないべきか?などなどです。

何かを信じて行動することが要求される

このように日常生活の実務レベルでは必ず何かを信じて行動することが要求されます。これは避けられないことです。だから、僕が気を付けないといけないと思っていることはこれらのことに心が縛られないようにするということです。

縛られないというのは固執したり執着しないということです。そして自分の考えと違う人たちの意見も尊重するということです。そうしないと、たとえクリスチャン同しであっても互いに挑み合いかみ合ってしまうことになりかねません。

だから、イエス・キリストの十字架によってすべての束縛から解放されてキリストにあって自由になること祈り続けたいと願っています。

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