1439_クリスチャンにとっての教師あり・なし学習

AIにおける教師あり学習

最近はAIについて勉強しているのですが、機械学習のプロセスとクリスチャンの信仰生活との間に類似点があるように感じたのでそのことを書こうと思います。

AIには「教師あり学習」という学習方法があります。これは犬の画像をいきなりAIに入力して判断させるのではなくて「この画像は犬ですよ」という正解情報(ラベル)と一緒に画像を入力します。そうすることでAIが「そうか、この画像は犬なんだな。覚えよう。」学習してくれます。

クリスチャンにおける教師あり学習

これはクリスチャンが聖書から学ぶプロセスに似ていると思いました。AIが画像と正解を組み合わせて正しい答えを学ぶように、クリスチャンも聖書の教え(正解)を通して信仰の歩みを学びます。聖書には様々な人物の行動とそれにおける成功例や失敗例がありのままに書かれています。多くの場合、正解は神の言を聞いて神の言に聞き従うということです。

たとえば、ヨセフは誘惑が来た時に逃げました。これは一つの正解例です。一方、サムソンは逃げることをせずにどんどん惹かれていきました。これは失敗例です。このようにおかれている状況に対してどう行動すれば、神様の御心に沿ったものになるのか?という正解の多くは聖書から学ぶことができます。

AIにおける教師なし学習

一方、AIには「教師なし学習」というものもあります。これは先ほどとは違い犬の画像だけが入力されて正解は教えてもらえません。ただし、大量の犬の画像を入力されることにより特徴などをパターン認識して、「これが犬なんだ」というのを学習していきます。これは正解がない中で学ぶプロセスです。

クリスチャンの実生活も同じように正解は与えられていないことが多くあります。日常生活における小さな意思決定から大きな意思決定、たとえば、進路、就職、配偶者の選択など聖書に直接答えが書かれていない問題が多くあります。

クリスチャンにおける教師なし学習

また実際生きていると、「なぜこんなことが起こるのか?」とか「神の御心はどこにあるのか?」と思いたくなるようなことも起きたりします。正解がわからないと思うこともあるかもしれません。

しかし、クリスチャンとして生きていて幸いだと感じるのは、たとえ、このように正解がわからなかったとしても、この地上で事後的に理解することができたり、あるいは天の故郷に帰った時に教えてもらえることだと思います。

なによりも慰め主である聖霊の助けを受けながら生きることができることは何よりも幸いなことだと思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)