1669_習慣化はある程度まで自制心をカバーしてくれる

自制心は役に立つのか?

昨日は「自制心」は「続ける」ことと密接に関係しており、人生を決するほど大切な徳であると書きました。では、自制心は訓練すれば身につけられるものなのでしょうか?自制心は自分の努力や医師で何とかできるものなのでしょうか?

僕はできるものとできないものがあると思います。たとえば、先日、嫁さんの友人が浮気をしていると書きましたが、感情が突っ走った場合、自制心は役に立ちません。また、治療が必要なほどの中毒に対しても自制心は無力です。

自制心をサポートしてくれるもの

ですので、ある程度のことまでは自制心は役に立ちますが、状況によって振れ切っている場合は自制心は意味がないと思っています。それは僕自身が全く自制心がないからです。僕は自分に自制心がないことをわかっているからこそ、それを何とかできないかと試行錯誤して生きてきました。

ある時まで、自制心がないから「やらなければいけないと頭ではわかっているのにできない」、「やったらいけないとわかっているのにやってしまう」と思ってきました。しかし、実際は自制心がなくてもできるようにする方法があったのです。

習慣化

それは「習慣化」です。習慣化さえしてしまえば自分の意思や自制心とは関係なしにできるようになるのです。僕は早起き、聖書の暗唱聖句、勉強、読書、筋トレ、ランニングなど自制心によってやっていません。ただ、習慣によってオートパイロットモードでやっているのです。

僕がしているのは、数週間から数か月かけてやりたいことを自身の日常にインストールしているだけです。一度、インストールされたらあとは自制心なしで体がかってにやってくれるのです。誰も歯磨きすることに自制心を必要とする人はいないでしょう。それは習慣になっているからです。

自身の感情に対して

「行動を習慣化させるのはわかった。じゃあ、自身の感情に対してはどうするのか?」この問いに関して僕は何もいえません。それは僕は自身に対して降参しているからです。僕は性格も資質も気質も振れ切っていて、自分で感情を制御できないことを知っています。だから僕にはイエス様が必要です。

僕はこれまでの人生で自分の感情で何度も失敗してきました。なぜなら、僕はサイコパスで激昂する本当にやばい人間だったからです。もし、イエス様に救われていなかったら、イエス様が共にいてくださらなければ、僕には友達一人もいなかったことでしょう。

主にあって微差の積み重ねで少しづつ変えられて言っていると信じますが、今も自身の肉が目を出す時に激昂モードに入る弱さがあると思っています。だから僕は毎日主の前に降参しなければなりません。

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