クリスチャンは人口
日本におけるクリスチャンは人口の1%以下と言われて久しいですが、その原因についてはあまり語られてないような気がします。欧米圏はキリスト教が文化として根付いており人口に対する割合としては多いです。
じゃあ日本では文化としてキリスト教が根付いていないからクリスチャンが少ないのか?と言われればそうでもなさそうです。それは韓国や中国、さらには東南アジアでクリスチャン人口が著しく増加したことからもわかります。
日本は神道が根付いているから。。ということも考えられそうですが中国にしろ東南アジアにしろどこででも土着信仰はあるもので、その国固有の信仰がキリストを受入れることの障壁になっているとは限らないようです。
そもそも選ばれる人は少ない
また、誤解を招く書き方かもしれませんが、そもそもクリスチャン人口が多いからといっていいわけではないというのも確かです。なぜなら、クリスチャンと一言に言っても、本当に聖書の御言に従っているクリスチャンはほとんどいないからです。
聖書にも「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と書かれています。御霊に導かれている人こそが神の子であって、習慣的に宗教活動をしている人が神の子とは限らないのです。
心の貧しい人は幸い
ですので、大切なのはクリスチャンが多いか?少ないか?ではなくて、選ばれているクリスチャンが多いか?少ないか?なのだと思います。
それを前提にしたうえで、なぜ、日本では選ばれるクリスチャンが少ないのか?ということについて考えてみました。ひとつ考えられるのは、「すでに心が満たされてしまっている」ということが挙げられると思います。イエス様は「心の貧しい人は幸い」だとおっしゃいました。
すでに満たされている
人間は日常生活を送る中で、あらゆるもので心の中に満たします。やりがいのある仕事、家族との時間、おいしい料理、音楽や映画、運動や体験、これらすべてがいつでも手に入らないとしても、そのいくつかはだいたい手に入れることができます。
しかし、これかを手にいれることができたとしてもそれは一時的なもの、刹那的なものであることは誰もが認めるでしょう。永遠に続く満足というものはないのです。
もし、この違和感に疑問をもち、もし永遠なる神との交わる中で本当の満たしがあるのではないか?と思う人は、心を貧しくして主を求めるようになります。そして主にお出会いする体験をするのです。
愛すること
今朝電車の中で聖書を読んでいた時にこの聖書の御言が迫ってきました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せ。」僕自身こそが、自分の心を他のもので満たして、神様の愛が入る余地をなくしてしまっているのだと思いました。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。」
マタイ5:3