0656_運転席に座って祈る言葉

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車の運転

最近、これまでずっと避けてきた車の運転をしなければならない状況になっています。できる限り運転したくないので避けがちになっています。事前にいつ車で出かけるかを決めておいて、それに照準を合わせて心を準備しなければならないほどです。もし、当日急に車を運転しないといけないことになると心が整えられてないので、まず無理です。

祈る前はもちろん祈ります。こんなことでも祈るのか?と思うかもしれませんが、祈らないと無理です。事故を起こさないように。事故に巻き込まれないように。冷静な判断ができるように。正しい判断ができるように祈っています。

ただ、先日は運転席に座ると御言が来たので、これからはこの御言を運転する前に祈ろうと決めました。

運転前によい御言

それは、最近ずっとブログで書いている第一コリント13章の御言です。

愛は寛容であり、愛は情け深い。
愛は妬むことをしない。
愛は高ぶらない。誇らない。
不作法をしない。
自分の利益を求めない。
苛立たない。
恨みを抱かない。
不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はとこしえに変わることがない。

車には意志がある

路上にある車は鉄の塊ではなく、意志を持っています。車の数だけ人間らしさがあるのです。心の穏やかな人が運転すると、それが車に現れます。きっとスピードを出しすぎず、歩行者を優先し、割り込みを受け入れ、不作法のない礼儀正しい運転になるでしょう。

しかし、もし、心穏やかじゃ無い人が運転すれば、狭い道路でスピードを出し、割り込みを入れず、無理な車線変更をしたり、ときには煽り運転をすることもあるかもしれません。

しかし、もし心にキリストの愛があるなら、高級車に乗っていても、高ぶることも、誇ることもありません。それが運転に現れることもないでしょう。また安い車に乗っていても、他の人を妬むこともありません。

愛が現れるなら

さらに、割り込まれても、車線変更して後ろの車にクラクションを鳴らされても苛立つこともありません。もちろん不作法をすることもありません。また、仮にむちゃくちゃ煽られたとしても相手に恨みを抱くこともありません。

僕が車の運転が嫌いな理由は単純に技能的に困難ということもありますが、「ストレスが多い」ということもあります。もし、後ろから少しでも近づかれてると焦ってしまったりするのです。

しかし、運転する前に、まずキリストからくる愛を頂いてハンドルを握り愛のある運転をしたいと思いました。

おっさん
■車で愛を表すこともできる

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