続けること
このブログでは信仰も含めて人生全般は「続ける」ことにかかっていると書いてきました。主の恵みを受けるのは簡単です。しかし、それを心に持ち「続ける」ことをするのは易しいことではありません。また新しいことを学び始めることは簡単ですが、それを何年も「続ける」ことは難しいです。
そして、最近、また別の大切なことを考えるようになりました。それは自制心についてです。これは続けることと密接に関係しています。むしろ、自制心がなければ「続ける」ことはできないです。
自制心
時々、学生時代の知り合いが今どうしているのか?などの情報が耳に入ってきます。そこで意外なことに気づくことが多いのです。それは、学生時代全然パッとしなかった人が成功していたり、逆に非常に優秀だった人が犯罪に手を染めたりしている場合があるという事実です。
様々な事情や背景があるとは思います。しかし、僕は人生を分けた要因の一つに「自制心」があるのではないかと思っています。
外からの監視
人は原則、安きに流れる生き物なので、自制心がなければ流されるままです。親もとで生活している人は自制心がなくても親の監視下にいます。別に親から「あれやれこれやれ」と言われなくても、「親がいる」という事実だけで身は引き締まるものです。
たとえば、僕は社会人になってからの一人暮らしをしていた時、暴飲暴食をしていました。毎日、外食をしても誰も何も言いません。何を飲んでも食べても自分のしたいようにできるのです。しかし、その結果は肥満です。僕には自制心がなかったのです。この時、僕は外からの監視のありがたみを感じるとともに、社会人として自制する力が必要だと痛感しました。
外圧が強すぎる場合
はじめての議論に戻ります。なぜ学生時代優秀だった人が落ちてしまったのでしょうか?僕はその人が学生時代に親や先生の強力な監視下にいたからだと思っています。外圧が強すぎるので自制しなくても成果が出ます。しかし、いざ学生が終わり、社会人になったとたん、全く自制心を働かせることができなくなったのではないかと思っています。
実際、反抗期のなかった人は社会人になってからの反動がすごいイメージがあります。むしろ、学生時代にしっかり反抗してきた人は精神的にも大きく成長し、自制心があると思っているのです。
僕は親として、子どもの反抗期をしっかり受け止められるようになりたいと願いました。自制心のない大人にならないように願うのはもちろんのこと、信仰においても親の神様ではなく、私の神様として自立できるように今から祈っていきたいです。