すべての罪は無知からくる
最近の自分の体験を通じて思ったことが、無知ほど恐ろしいものはないということです。すべての罪は無知からくるのだとも思います。そして、信仰生活とは日々、聖書や祈りや体験の中で自分の無知を神様に教えてもらうことです。
信仰生活の序盤に感じる無知は非常に良かったと思います。「あなたは神に愛されている!」「あなたは赦された!」「主はあなたと共におられる」などなど、これまで全く知らなかった神様の大きな愛や自身に対する関心を知って感動したからです。
愛を動機とした叱責
しかし、いつまでもそういったところにとどまっているわけにもいきません。神様は僕を愛するがゆえに時に「あなたはだめだ」とか「あなたは汚れている」とか「あなたは律法主義だ」とおっしゃることがあります。
ある人は、「そんなことはない!神様は愛のお方だ!」とおっしゃるかもしれません。しかし、新約聖書をよく読むと、イエス様が律法学者やパリサイ人たちに対して非常に厳しい態度で臨んでおられたことを知らなければなりません。それは単に、律法学者が憎くて非難をしたかったわけではなく、そこから変わってほしいという愛を動機とした叱責だったのだと思います。
僕を矯正するために強烈なお言葉を下さる時もある
しかし、僕も含めてクリスチャンは「イエス様は愛に満ちたお方で何でも赦して受け入れてくださる」と思ってしまう危険性があります。イエス様は心底僕を愛してくださっているがゆえに僕を矯正するために強烈なお言葉を下さる時もあります。
僕が今回つらい経験をしたのがその時だったのです。イエス様の前に非常に恥ずかしい気持ちになりました。また自分に絶望しましたし、自分が如何に頼りない存在であるかも知りました。
正しい道を歩むため
聖書は神様の言葉そのものです。イエス様は時に御言をもって戒めてくださいます。しかしそれは、僕が正しい道を歩むためのものです。
主を賛美いたします。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテヘの第二の手紙 3:16