憐れみ深い神
聖書の神様は恵みに満ちた憐れみ深いお方です。イエス様は「健康な人には医者はいりません。医者が必要なのは病人です。」と言って、この世で無きに等しい軽んじられている罪人や病人や孤独な人たちを受け入れ、神様の祝福の中に導き入れてくれました。
また、イエス様が天のお父さんという存在を人類に示したように、親が子を愛する以上の愛(アガペー)で僕たち人間を心の底から関心を持ち、気にかけ、心に留めてくださっています。
正義の神
その一方で、主に旧約聖書にもあらゆるところに描写されているように、神様は義なるお方でもあります。悪に対して一切の妥協はありません。グレーゾーンもありません。白黒はっきりしているのです。それは神様が聖なるお方だから当然のように思います。イエス様も「律法の一点一画も地に落ちることはない」と明言されました。
これは、人間の罪に対しても一切の妥協がないということです。僕にはこういった性質があることを認めます。例えば「ここまでは大丈夫だろう~」とか「これはいいだろう~」と罪の範囲を自己定義して、グレーゾーンをどんどん広げるような性質です。新約聖書のあらゆるとこりに「罪を犯してはならない」や「罪を犯さないようにしなさい」と繰り返し繰り返し記載されています。僕はそれを読むたびに、うっとつらくなります。なぜなら、世にある法律で規定されている犯罪は犯していなくても、心の中では聖書の基準に反することをしているからです。
グレーゾーン補正とギャップ認識
しかし、聖書を読み、神様に触れられ、聖書の基準、神の基準が明らかになると自己定義したグレーゾーンが明らかに間違っていると気づかされることがあります。自分の中ではそれは認めたくないという肉的な性質と霊的性質との激しい戦い、葛藤が起こります。その後、やっぱり自分の自己定義は間違っていたと悔い改めて、今一度、神様の基準に焦点を当てて生きる決心をします。じゃあ、次は何が起こるかというと、神様の基準と現在の自分のギャップの大きさに驚かされるのです。
もし、そのギャップが大きすぎるがゆえに、「もうやーめた」とか「やってられね」とか「こりゃ割に合わんわ」となるなら、その時点で、信仰から来る神様の特別な祝福もあきらめることになります。そのギャップと対峙、直視、向き合うことによって、さらなるへりくだりへ導かれ、神様を恐れ敬う者、神様を求める者に造り変えられていくのだと思います。
実践後の失敗
そのギャップと向きあって、行動・実践すると失敗は避けられません。時には打ちひしがれ、時には悲しみに暮れる日があるかもしれません。しかし、イエス様の恵みと憐れみは、そのような自分であっても義なる聖なる神に受け入れられているという体験をさせて頂き、再び立ち上がる力を与えてくださるのです。
この一連の過程を繰り返しながら主の恵みの中で生きている、それがクリスチャン生活のように感じています。
■聖書を読み、神様の聖さに触れられると自己定義した罪のグレーゾーンがあきらかにされる
■次は、聖書の基準との現在の自分とのギャップに苦悩する
■信仰して、実践する中で失敗は避けられないが、その度に主の愛を感じ再び立ち上がらせてくださる