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影響が大きすぎる
OPEN AIのchatGPTを含む対話型AIの開発の競争が激化しています。その影響は既に様々なところに出ています。読書感想文のコンクールなどでは応募規約に対話型AIを使って書いた感想文を認めないことが明記されたようです。今後教育界だけにとどまらず、様々なところで影響が顕在化していくことでしょう。
さらに今日は、イーロン・マスクやアップルの共同創業者など著名人が「一旦、対話型AIの開発をストップして、倫理的な側面を含めて人類に対する影響をもっと冷静に影響などを考えましょう」という内容に署名したということが報道されていました。
聖書の知識的側面
産業革命において人間の肉体的側面の優位性の一部が機械に奪われました。今度は知識や認知における人間の優位性をAIがもうすでに奪ってしまっているのです。こういったAIが当たり前に存在する世界で「学ぶこととは?」や「人間というい存在は?」という問いを誰もが持たざるを得なくなるでしょう。
キリスト教会ものほほんとしてはいられません。これまで、牧師や伝道師など教役者を志す者は一定期間(3年や4年など)、専門的に神学や説教学、宣教学を学ぶ必要がありました。しかし、今や対話型AIに例えば、「創世記3章から子供向けの説教を作って」と命令するだけで、聖書の解釈やそこから何が学べるのかといったことまで書いてくれるのです。これは、正直恐ろしいことです。
霊的側面
かと言って悲観的になっても仕方がありません。なぜなら、既に起こっていることだからです。うまく対話型AIを使うことは避けられないと思っています。例えば、これまで説教を作る時に参考にしていた注解書やコンコルダンスやチェーン式聖書や聖書辞典などで調べていた知識的なことは対話型AIに回答してもらうという使い方です。
前提として、説教内容をAIに作ってもらうことは絶対にできません。なぜなら、説教は決して知識の伝達ではないからです。語るべきことは神様が語ってくださるものであり、神の言を預かる預言者的働きをするのが説教者だからです。そしてそれは、霊的な存在であり、かつキリストによって魂が救われた、神と和解した人にしかできない働きです。
祈りに専念
つまり、人にはできて、AIにはできないことは、神との会話です。人は祈ることができてもAIには祈ることはできません。つまり、人はより一層、祈りに専念することができるようになるんじゃないかと思っています。
知識の伝達としての説教はAIが既にできてしまいます。しかし、それは厳密にいえば、神の言ではありません。神が預言者に語られた霊的な食物こそが説教だと思っています。
色々な意見があると思いますが、また皆さんの意見をお聞かせください。