モーセ五書はおもしかった
今は通読でサムエル記上を読んでいます。これまでモーセ五書と言われている「創世記」、「出エジプト」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」はかなり興味深く読むことができました。実際、モーセ五書を読む中で覚えたいと思う御言も多くてノートにたくさんの御言を書きました。
申命記の次の書物であるはヨシュア記はエジプトした次の世代が戦いにおいて勝利を得ていくという花々しい書物と思いきや!意外にあっさり読み終えてしまった感が否めませんでした。特に士師記も読了感があまりよくありませんでした。
なかなかの士師たち
確かにギデオン、エフタ、サムソンなど弱かった者が主によって勇士になり、イスラエルを守るために的であるペリシテ人を打ち破るというのは読んでいて清々しかったのですが、みんな何かしら、悲しみや違和感を感じざるをえませんでした。
ギデオンはよく読むと最後の最後で失敗を犯しているように思います。祭司たる者だけがエポデを着て神に仕えることができるのに彼はそれを作って全く違った使い方をしたようです。
ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。
士師記8:27
悲しい結末が多い
エフタはならず者として育ちましたが、イスラエルから助けるように懇願させれて士師として立ちあがります。とろこが、その中で自身が勝利を得て最初に出迎えた者を主に犠牲として捧げると誓ってしまいました。そしてなんと自分の娘が迎えに来てしまったのです。自分の娘を犠牲にしないといけないという事態になります。
エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
士師記11:30-31
僕は37年生きてきて、この個所から説教を聞いたことがありません。どう解釈すべきかわからないのですが、予測するに主は人を犠牲として求めていないにもかかわらず、勝手にそのような誓いをしてしまったエフタが悪かったのかと思っています。
最後は悲しいどころじゃない
次はサムソンですが、これは書く必要もないでしょう。士師記の最後(19章~21章)はここで書くのも憚れるような残酷な出来事が起きて終わります。僕は出勤前にその箇所を読んでげんなりして出勤しました。
ここから何を学ぶべきなのかと思いましたが、きっと主は今尚もこのような出来事が起こっている世界を見てげんなりするどころか大いに悲しまれているということだと思いました。主と共に喜ぶことも賜っているなら、主と共に悲しむことも賜るべきかと思いました。