1051_主の言葉を実行していないにも関わらず実行していると思い込んでいる主のしもべ

サムエル記上が面白い

昨日も書きましたが今はサムエル記上を読んでいます。サムエル記上はサムエルの奇跡的な誕生からサムエルが最後の士師として歩み、サウル、ダビデと王が立てられる物語として読んでも非常に面白い書物です。もちろん、物語として読むだけではなく、そこから霊的なエッセンスをたくさん得ることができます。

学んだことはたくさんあるのですが、そのいくつかをシェアしたいと思います。

一つはサムエルは幼いころからエリのもので主に仕えることを学んでいました。しかし、ここで明確に記載されていることは、主に仕えることと主を知ることは別のことだということです。聖書にはこのように記載されていました。

サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。
サムエル記上3:7

厳然な事実として、逆を言えば主を知らずとも主に仕えることはできるということです。こんなことを書くと怒られそうですが、大切なのは主に仕えることだけではなく主を知ることだと思いました。聖書にもこのように記載されています。

わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6

サウルの思い込み

二つ目はサウルのいくつかの失敗です。彼が主の言葉に従わなかった箇所で彼がサムエルに言い訳をしているセリフが心に留まりました。

サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」
サムエル記上15:13

ここでサウルはすべてを滅ぼせという主の命令に背き、自分がよいと思った分捕りものや動物を残しておいたのです。つまり彼は主の言葉を実行していなかったのです。さらに、主のためにはではなく、自分のために戦勝記念日まで建てたようです。もしかしたら彼は敵に勝利できたことは神が共にいてくださったことの証拠だと思ったのかもしれません。だから彼は不思議にも自信満々で「主の言葉を実行しました。」と宣言したのです。

自分も同じじゃないか!?

僕はこの言葉を読んだ時に恐ろしくなってしまいました。なぜなら、僕自身主の御心のとおりにやっていると思っていながら、実は全く神の御心から外れていることをしているのではないかと思ったからです。恐ろしいのはサウルが自分が何をしているかわからないほどに鈍感になっていたことです。

サウルは主の命令は確かに聞きました。そして、彼はそれを実行していないにも関わらず、実行しましたと思いこんでいたのです。僕は自分もサウルと同じだと思い主の前に悔い改めたいと思わされました。そして、この御言を自戒としてノートに記載し覚えることにしました。背くことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝と等しい。。

「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、
燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、
聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
そむくことは占いの罪に等しく、
強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
あなたが主のことばを捨てたので、
主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。
サムエル記上15:22-23

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