自分はできていると思う
人間はどうも「自分ではできていると思う」というバイアスがかかりやすい生き物のようです。聖書を見れば律法学者やパリサイ人などはまさにそうでした。全く天の父の心を知らず実行もしていないのに、自分たちはできていると思っていたのです。
これはクリスチャンに限らずなんでもそうだと思います。誰かがある思想をもっていたとしても、実際に行動とその思想が一致しているかはまた別の話です。ベジタリアンにしろ、様々なストイックな生き方にしろ、できていると思っていても意外にできていないことが多いと思います。
神様に祈り御霊に教えてもらう必要
クリスチャン生活にもそういったバイアスがかかりやすいです。だから、神様に祈り御霊に教えてもらう必要があります。なぜなら、クリスチャンなら誰でも自分が謙遜であると思い込み、自分の栄誉なんて求めていないと思ってしまうからです。
しかし、自分がそう思っていることと実際の行動が異なる場合があります。また今はたとえできていたとしても状況や環境が変わった時に自分がどういった振る舞いをしてしまう場合もあるでしょう。
人から賞賛される気持ちよさ
僕は先日夢を見てそんなことを教えられました。それは僕がブレイクダンスの大会の予選で出ている夢でした。個人戦だったのですが、音楽が流れると僕の体は軽快にリズムに合わせてステップを踏み出し、フットワークとパワームーブを繰り出し、最後はカチッと音はめで高度なフリーズを決めるという夢でした。
聴衆が息をのみ一瞬空気が止まったと思ったたら、その次の瞬間、聴衆が喝采と絶叫を上げて僕のパフォーマンスを絶賛しているのでした。その時、僕は夢の中で人から賞賛されることの気持ちよさを味わいました。普段生活を送っていても人から賞賛されることなど皆無なので、人から絶賛されて賞賛されることがこんなにも心地よいものなのかと思ってしまいました。
自分のものにしてしまうんだ
その一方で、自分も結局は人からの賞賛を喜び、かつそれを自分のものにしてしまうんだと思ってしまいました。たとえ、僕が何もない状態で、「僕はいつも主に栄光をおかえしします」と言っていても、自分が称賛される状況になったら、僕はしっかり自分のものとして受け止めていたのです。
僕は主の前に卑しい者だと改めて思わされました。僕には人からの賞賛を喜びそれを自分のものとしてしまう弱さがあります。しかし、僕がそういう状況になった時に主に感謝し、主に栄光をお返しできるように祈りました。