0068_初めて幸せの定義をしてみた結果

ある本に「自分で幸せを定義できていない人は幸せになれない。」と書かれていてました。意識的に定義しているかどうかは別にして、誰でもおそらくぼんやりとこうなったら幸せだろうというイメージがあると思います。

よく言われる戦後から高度経済成長期のステレオタイプの「幸せ」とは、主に、高学歴を手に入れて、大企業に務めて昇進しつつ、家庭を持ち、マイホームを購入して、子育て後、孫に囲まれつつ余生を過ごす、といったものでした。

しかし、現在では、どのように幸せになるかは千差万別です。いっそのこと高学歴は捨てて、Youtuberになることで幸せを手にしようとする人もいますし、都会から離れて、ポツンと一軒家に出てくるような自然の中で自給自足の生活を送ることに幸せを感じる人もいると思います。

絶景の見える露天風呂に入ったり、美味しいものを食べたり、あるいは、大切な人と非日常の時間を過ごすことによって一時的に感じる幸せは、比較的手にしやすいですが、「幸せになる」という状態は、しっかり定義しておかないとぶれてしまう可能性があります。

聖書に登場するイスラエルの王ダビデが定義する幸せとは下記のようなものでした。彼は自分が書いた詩の中で何度も幸いな人について記述しています。

そのとががゆるされ、
その罪がおおい消される者はさいわいである。
詩篇32:1(口語訳)

主の恵みふかきことを味わい知れ、
主に寄り頼む人はさいわいである。
詩篇32:8(口語訳)

あなたの家に住み、
常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。
詩篇84:4(口語訳)

公正を守る人々、常に正義を行う人はさいわいである。
詩篇106:3(口語訳)

上記は一部抜粋ですが、まとめますと下記のようになります。

  • イエス・キリストの十字架によって、罪が赦されている人は幸せな人。
  • 神様を避け所として、より頼む人は幸せな人。
  • 神様を賛美する人は幸せな人。
  • 嘘偽りなく、誠実で善良な人は、幸せな人。

今の生活水準がどのようであれ、今の状態がどのようであれ、将来がどのようになろうとも、イエス・キリストの十字架によって罪が赦されている状態は決して変わることはありません。それが聖書の教える幸せの条件です。

そして、さらに彼の名を褒め称えつつ、神と共に歩み、より頼んで誠実に善良に生きることで、幸せが増し加わるものなのだと思います。