1日が終わるころには心が汚くなる
最近1日が終わった時の自分の心の中が非常に汚くなっていることに気づきました。確かに朝には聖書を読んで祈って魂に新しい命が吹き込まれて仕事に励むのですが、1日が終わるころには、その清々しさがなくなってしまっているのです。
もしかしたら、それは当然のことかもしれません。なぜなら、1日労働することによって肉体も精神も頭も疲労するからです。そして人間関係の中で生きていて、かつ忙しさの中にいる時、心もすり減り、心も疲れるのだと思います。
普通に生きているだけなのに
僕が冒頭に述べた心の中が非常に汚くなっているというのは別に誰かに対して恨みを抱いたり、何かを変なコンテンツを見て心を満たそうとして汚くなっているというわけではありません。むしろ、そういうことをしていなくても、わずか数時間生きるだけで心の中が汚くなっているということです。
仮に8時に祈って聖書を読んで清々しくなっても、夕方17時ころには何かすさんでいるのです。
当然のことだと思っていた
これまで、僕はこういったことは当然のことだし、仕方のないことだと思っていました。むしろ、自分が汚くなっているという自覚すらありませんでした。1週間に1回教会に行って心も魂も新しくなってそれでいける!とすら考えていたのです。
しかし、1日の終わりに祈るようになってから自分の心の中がとても汚くなっていることに気づいたのです。それは聖なるお方の前に出ることによって、自分の汚さが顕わになっているからだと思います。主の前に出る時に自分の汚さが明らかになるのです。
毎日迫られる2択
神様の前に出るとは人間にとって究極の2択です。なぜなら、神様の前に出なければ自分の汚さが明らかにならないからです。しかし、神様の前にでることを決意するならば、まず、自分の汚さを直視しなければなりません。その過程で、人間は十字架の道を通るのです。神様の清さにあずかる前に人間は十字架を通り、悔い改めの道を通らないといけないのです。
このことに関して、元来の肉の人間は激しく抵抗します。誰も自分の汚さを認めたくないし、それが明らかになるのも嫌だからです。だから新約聖書においても多くの弟子たちはイエス様の十字架につまずいたのです。イエス様が自分の血や肉について話をした時に多くの弟子は「これはひどい言葉だ」と言ってイエス様のもとを去っていったのです。
光に行くか、闇のままか
僕は今でも毎日、神様の前に出るか出ないかの二択に迫られています。もし出なければ汚さが明らかにならないからいい!という肉の思いと神様に近づいてもっと聖い者になりたい!という霊の思いが戦うのです。
聖書でもイエス様がこのように言っています。
悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
ヨハネによる福音書 3:20-21
今日もイエス様の十字架の前に立ちます。