一袋のクッピーラムネ
日々、息子から多くのことを学ばせてもらっています。彼はまだ1歳ちょっとなので、一部の言葉は聴き取ることはできますが、意味のある言葉を話すことはほとんどできません。手先の機能においては、持ったり、ひっぱたり、押したり、めくったり簡単な制御はできているようですが、袋を開けたりはまだできません。
先日このような出来事がありました。僕がソファーに座っていると小さい袋に入った赤ちゃん向けのクッピーラムネをどこかから見つけてきて僕のところに持ってきました。するとクッピーラムネを持っていないほうの手で僕の手を持ちあげて手のひらを向けさせました。そして、そのクッピーラムネを僕の手に置いたのです。
できる限りの表現
そして、「うぅー」と言いながら開けてくれとねだったのです。クッピーラムネを食べたいけど自分で開けられないので開けてくれということなのです。晩御飯までまだ時間があり、ラムネなので開けてあげることにしました。すると、両手でぱちぱちして喜びを表現しました。その後、僕にもたれかかってクッピーラムネをちびちび食べていたのです。
大人なら好きな時に好きなものを食べられますが、赤ちゃんはまだまだできないことが多いので、食べるにしても大人の助けが必要なのです。僕はこの赤ちゃんなりに自分ができる表現で、自分がしてほしいことを親に訴える姿がとてもかわいいと思いました。
できること
大人になるにつれて、できることは増えます。さらに自由にもなります。ほとんどの場合、何を食べようが何を飲もうが健康である限りは、誰かからの制約を受けることもありません。自分でやるのが当たり前になるのが大人です。
しかし、聖書が明確に告げているのは必要なのは「幼子の信仰」だということです。僕はどうでしょう。きっと自分でできることが増えているから、わざわざ天のお父様のところに行って助けてくださいということが少なくなったのではないかと思います。
できないこと
しかし、実際は決して自分でできることが増えたわけではないのです。自分でできると思いこんでいるか、もしくは自分でできることしかしていないだけなのです。例えば、本当に人を神の愛で愛することは僕にできることでしょうか?聖霊による福音宣教は僕にできることでしょうか?
ようは、自分でできることだけに注力していて、自分にできないこと、つまり、天のお父様の助けによってようやくできることから目をそらしているだけにすぎないのだと思いました。
幼子の信仰
もちろん、何でも神様任せではなく、自分の責任範囲のことや自分の意志の力を働かせるところは自分でやらないといけないですが、幼子がお父さんにできないから「これやって」とお願いする姿にならう必要があると思いました。