0815_僕の主観が神様の存在を決めていた信仰生活時代

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イエス様との交わり

イエス様との個人的な関係の中で昨年から自分が変わったと思うところがあります。これまではイエス様との愛の関係というと、僕の中では礼拝や祈りの中で主に触れられて涙を流したり、深く感動したりすることでした。イエス様に愛されていること、ゆるされていること、受け入れられていることを確信できるのは僕にとって大きな力となっていました。

しかし、昨年からひとつひとつの御言と向き合う中で、また牧師先生の説教を聞く中で、僕自身が変わらないといけないと思うようになりました。それは、受け身じゃなくて、能動的、主体的、自主的に主に仕える生き方を本当にしたいと思うようになったのです。

これまでの信仰姿勢

より表現を選ばずに言えば、これまでの僕の信仰生活はイエス様に仕える立場じゃなくて、イエス様に仕えてもらうような信仰姿勢だったのです。イエス様は愛の供給者であり、それがあることで僕が恵まれて生きることができる。それ以上でもそれ以下でもなかったのです。

しかし、一つ一つの御言と向き合っていくと、それは決してイエス様に従う生き方ではないということが心の深いところでようやくわかるようになりました。これまでは、自分のしたいことはする、残った時間を主にお捧げするような生活だったのです。

少し変わった

こういったイエス様に向き合う姿勢が変わる中で、御言を頂くことが本当に心の喜びであり、イエス様に仕えて喜んで頂くことが僕の喜びと感じるようになりました。もちろん、僕はまだまだ成長途中で本当の意味で体験も理解も浅いと思っています。しかし、微差レベルの変化かもしれませんが、着実に一歩一歩自分中心から神中心に軸が移っていっていることを感じています。

以前なら、主との祈りの時間の主役は僕でした。そして僕の主観こそが主の存在を決めていたのです。つまり、主との交わりの中で感動して涙を流したり感謝することで主存在を確認していたのです。しかし今ではそういったことは二次的なものになりました。僕が求めていることはただ主に仕えることであり主がどう感じられるかだけになったのです。

自分が塵に過ぎないことがわかってくる

そうは書きつつも日々、自分の醜いところがあらわになることばかりです。しかし、あらわにされていく自分の憎さや汚さを目の当たりにする中で、神様の前に悔い改めて本当に神様に喜んでもらえるような聖い者になりたいと思っています。

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