0814_YAVAY大人

やばい大人

みなさんの周りのやばい大人はいるでしょうか。面倒な人、できれば関わりたくない人と言われるような人かもしれません。何かとグチグチ言う人、何でも喋る人、感情の起伏が激しく言いたいことばかり言う人かもしれません。

僕自身はこのYAVAY大人だと思っています。その原因として僕は3人兄弟の末っ子長男で、甘やかされて育ったからです。さらに実生活では、なんでも姉二人が面倒を見てくれたから自分から率先して何かをするということがほとんどなかったからです。

僕自身がやばい

さらに、生まれ持った性質もかなり厄介でした。幼稚園のときからひねくれていて、何かと物事をねじって捉える性質がありました。しかも、言いたいことは絶対に言うとか、伝えないとわかってもらえないとか、すぐに顔にでるとか性質がありました。

周りから見た場合、わかりやすいですが、これこそYAVAY大人だと思います。しかし、それで僕自身よしと思っているわけではありません。YAVAY大人は全く成熟していない人だからです。聖書の価値観に合わせなくても、世の中の価値観ですら、成熟した大人を求めるものです。だから、僕は変えられたかったのです。

クリスチャンの幸い

クリスチャンが幸いなのは主が成長させてくださるということです。「僕はYAVAY人間です。どうか造り変えてください。」と祈り求めるならば、主は必ず少しづつかもしれませんが、確かに成長させてくださいます。

その成長が、神の愛に満たされて美しい過程で行われるのであれば、喜んで成長を受け入れます。しかし、実際は自分の自我や肉や思いが打ち砕かれることを通して成長させられることがほとんどです。

造り変えられる過程

家庭、職場、教会、地域、様々なところで、そして主に人間関係を通して、自分の中の砕かれないといけいない性質が顕わになって悔い改めに導かれるのです。このブログでも何度でも書いていますが、その過程はとてもつらいものです。なぜなら、自分を否定する作業だからです。誰でも元来人間は自分自身が大切と思っているものです。

しかし、自分の考えや方法ややり方などが否定された時に、「何を!」と思ってしまうところに砕かれないといけない性質が明確に残っています。クリスチャンは、古い命はキリストのうちに死んだと聖書にあります。ですので、こういった性質を日々、自分の十字架を背負って主に従い、古い性質を十字架につけ続ける作業が必要になります。

成長できる喜び

「なんだクリスチャンって面倒だな」と思われるかもしれませんが、こういった過程を通して、自分が成長できるのは大きな喜びです。そして、何よりも神様が成長している僕たちを大いに喜んでくださるからです。だから、祈りたくないけれども今日もこのように祈りたいと思います。

「どうか古い自分の性質を今日も十字架につけてあなたに従います。」

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