筋トレをする意味
1年半前くらいから週に2回の筋トレをするようにしていますが、必ずしも毎回「今日もやるぞ〜!」という高いモチーべションでやっているわけではありません。また「ムキムキになって格好いい肉体をつくるぞ〜!」とも思ってもいません。
むしろ、筋トレをしてもなんの意味もないと思いながらやっています。日常生活で決して使うことのない重量を持ち上げられるようになっても何の意味もありません。また体が大きくなって逆三角形の上半身になっても、見栄えはよくなるかもしれませんが、それ自体に意味はありません。
僕の考えでは、最低限の健康が維持されていれば、あとは人間にとって意味があるのは内面の変化だけです。そのため、競技や仕事で一般人以上の筋力を必要とする人以外、過度の筋トレは無駄なものだと思っています。特に表面的な格好良さだけで評価される大会などはその際たるものだと思います。
なぜするのか?
じゃあ、なぜ僕は毎週必ず2回の筋トレをするのでしょうか。それは「週に2回筋トレをすると決めた」からにすぎません。自分の約束を守るためにだけにやっています。1回あたり1時間くらい筋トレをするので、週に2回の筋トレがなければ、毎週2時間、年間でおおよそ100時間くらいは読書をしたり、家族と過ごしたり、もっと意味のある過ごし方ができると思います。
特に最近は9時半とか10時就寝が習慣になってしまっているので、仕事の関係で夜遅くに家に帰って来た時に筋トレをしないといけない状況がつらいと思うこともあります。そうは思いつつも、「決めたこと」だから続けます。
ある事実があるから
実は信仰生活も似ているところがあります。それは、「信仰は感情に紐づくものではない」ということです。今日は神様を礼拝するけど明日はしないとか、今日は礼拝に行く気がしないとか、そういった自分の気持や感情に左右されるものではないのです。
むしろ、「神様が僕を救ってくださったから礼拝をする」だけのことなのです。もし、自分の気分によって信仰生活を送ったらきっと不安定になります。なぜなら、感情は必ず浮き沈みするものだからです。
もちろん信仰生活は筋トレのように「自分が決めた」から淡々とこなすわけでもありませんが、結局は恵みの中で選択できる自分の意志が大切なのだと思います。だから、たとえ、トラブルがあっても、しんどくても、悲しくても、「イエス様が僕を救ってくださった」という理由だけで今日も主を賛美します。