0729_心に大きな喜びが溢れるのは礼拝の時でも祈りの時でもない

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教会のバザー

先日教会でバザーが開催されました。僕は初めての参加だったのですが、思った以上にかなり楽しむことができました。食べ物ですと、ベーグル、ケーキ、クッキー、焼きそば、お餅などがあり、普通にお店で販売されているものも取り扱っていました。子供向けには昔ながらのプラスティック製の玩具がもらえる輪投げ、スーパーボール救い、ヨーヨー釣り、一円玉落としなどがありました。バザーで販売されているものは割と個性強めだったのですが、掘り出し物もありました。

僕は唯一の奉仕であった餅つきが終わるとフリータイムになったので、色々と物色しながら色々な人と話をしました。僕はもっぱら友だちが少ない系の人間なので、これを機会に友達を作ろうと思っていました。普段は教会にはこない同年代か僕より年下くらいの男の人がいたら話しかけて必死で友だちを作ろうとしました。

祈りたいと思ったこと

必死さが伝わったのか?幸い、「最初は何だこいつ」と思っていたと思われる高校二年生の男子と、割と仲良く色々話すことができるようになりました。どうも学校にはあまり行けていないようで、何とか進級できたと言っていたので、勝手に祈りたいと思わされました。

もちろん、人それぞれの人生があり、得手不得手があるので、学校に行くことが正しいとは思いません。しかし、学校というコミュニティーがないと相対的にリアルなつながりが希薄になる傾向があるので、僕はそのリアルな関係の一部になれたらと思いました。

その青年とはLINE交換まで持ち込めたので、彼のために祈り続けてリアルな交流ができる一人になれたらと思っています。

人とのつながりの中におられるイエス様

まだまだうまく言語化はできていないのですが、誤解を恐れずに言えば、クリスチャンとして生きていて、一番心に喜びが溢れるのは、個人的な祈りでも賛美でも説教の時間でもありません。心に大きな喜びが訪れるのは、人との繋がりの中にイエス様がそこにおられることです。

祈り心を持って人の中に入っていって、イエス様の御声を聞いて、人とのかかわりを持つときに、明確にそこにイエス様がおられることが感じられるのです。僕自身はつまらない人間であったとしても、イエス様がそこにおられるならば、そこが祝福と恵みに満ちたところになるのです。

ですので、老婆心ならぬ、老爺心を働かせて、この青年のところにイエス様をお連れしたいと思いました。

おっさん
■イエス様を他の人のところにお連れする時に心に大きな喜びがあふれる

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