0388_墓前礼拝に参加して

マイクロバスに乗って遠足気分

今日は教会のイースター礼拝が終わってから、みんなでマイクロバスに乗り込み墓前礼拝なるものに参加してきました。もともと教会内部に納骨堂があったのですが、10年ほど前に自然豊かな霊園と言われるところにキリスト教式の集団墓石を建てられました。聖徒の日とは別に、納骨されているところにみんなで行って、青空の下、賛美をしたり、説教を聞いたり、久しぶりの人との再開など大変恵まれた時となりました。

久しぶりのバスでちょっとした遠足気分を味わうことができました。普段車を運転することもなく、また、こういった長距離バスに乗ること自体が数年ぶりだったので、窓から見える移り変わる景色が刺激的で夢中になって窓外の景色を楽しむことができました。

バスの窓から見える景色

昭和のレガシー的な工場の町並み、緻密な計算のもと絶妙に入り組んだ壮大なジャンクション、個人経営のレトロな店舗など景色は次々と変わります。霊園がある山に近づくと、葉っぱそのものが光を放っているかのような新緑が美しく、身を乗り出して鑑賞してしまいました。

遠くから見ると同じ緑のように見えますが、近づくと全く同じ色は存在せず、こういったところに創造主なる神の小さなこだわりを垣間見ることができて、神様は本当に適当に仕事をされる方ではなくて、こだわってこの世界を造ってくださったんだと感じました。

すべて与えてくださっているもの

そして、いよいよ霊園内にバスが入っていくと、緑豊かな整備れた空間が現れました。これは王宮の庭だと思うほど自然と人工物が調和しており、視覚から多くの心の豊かさを得ることができました。なぜこんなにも美しいかというと、新緑の季節であり、天気が良かったからだと思います。もし、雨が降っていたら、また、もし季節が巡らなければ、ただの冷たいコンクリートの人工物にすぎないのです。

今年も季節が巡って、花が咲き、新芽が出ています。しかし、それも当たり前のことではありません。当たり前のように見れるこのような季節も来年も見れるとはかぎりません。平和を謳歌している日本でも来年は戦場になっている可能性も否定できません。あるいは気候変動による災害などで、自然が破壊されるかもしれません。

今という時間がいかにかけがえのないものであるのかを体感することができました。今与えられているもの、仕事、教会、家庭、友達、同僚、この身体、魂、すべて与えられているものです。

そして、今があるのは、2000年前にイエス・キリストが十字架にかかって、よみにくだり、3日目に蘇ってくださったからです。もし、復活がなければ、今この心の奥底にある静かな喜び、感動、平安、平和もなかったことでしょう。そしてイエス・キリストにより、死人の復活が証明されたように、私達も天の故郷へ帰る希望をもっているのです。

おっさん
■新緑の季節、新しい生命が力強く溢れている
■それは創造主なる主が支配して与えてくださっているから
■イエス様の十字架により新しい命を与えてくださった
■それを当たり前と思わずに、今に感謝したい

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