若い頃の純粋な信仰に戻りたい
最近、神様に出会ったあの若かった頃に戻りたいと思うことがありました。あの時は本当に純粋に神様だけを求めていたからです。世の中にも出ていなかったので、擦れておらず、まさに幼子のような気持ちで神様との交わりだけを追求するような生き方をしていたのです。
しかし、そんなノスタルジックな気持ちに思いをはせつつ思わされたのは、それは本物の信仰ではなかったということです。本物の信仰は試されてわかるものだからです。いくら耐震強度が〇〇あると言われても、それがわかるのは実際に地震が来た時だけです。試された時に真価が明らかにされるのです。つまり、過酷なところにおかれて、なお幼子のような信仰があるのが本物なのです。
困難な時のほうが神を求める
若い頃、信仰というものについて、このように考えていました。
「人は順風満帆な時よりも困難な時のほうが神を求める」
それは今でもその通りだと思うし、その通りでないとも思います。そう思うのは、若い時の困難と今の困難が質量ともに全く比にならないほど違うからです。若い頃の困難は限定的であったと気づかされたのです。
もちろん、若い頃には若い時なりの困難がありました。友人関係、両親との関係、恋愛、就職進学、教会関係などです。僕は困難な状況に陥った時に必死に神様に祈り求めていました。だからこそ、「困難な時の方が神を求める」と考えていました。
今ではわかることなのですが、当時の僕にとって、当時の困難は強度、長さにおいて、適度だったということです。だからこそ僕を適度に神に向かわせていたのだと思います。
困難は人を神から離す
しかし、年を取るにつれて困難の強度はより強く、長さはより長くなってきたように思います。それは社会人になったからというのもあると思います。また親の庇護から外れて、経済的にも信仰的にも自分で生きるということを実践し始めたからかもしれません。
そうなった時、「人は順風満帆な時よりも困難な時のほうが神を求める」とは思えないことが起き始めたのです。まず、長期戦は信仰の忍耐が試されます。状況に変化が見られない、目に見えるところは依然として困難となると、戦意喪失(不信仰)の誘惑が来ました。また突発的に強度の高い困難が起きた時はその時点で打倒されそうになるからです。
それは、つまり困難な状態は人を神から離す場合があるというのを経験したのです。
知っていること
しかしながら、僕は知っています。どれだけ強烈な困難がこようとも「キリストは僕を見放さない」ということです。そして困難の強度が増すところに、神の恵みも増し、困難の長さが長くなるところに、神の恵みも長くなったからです。
どのような困難であれ、必ず自分が神様と向き合うことにより初めて道が開かれるものです。