0718_愛があるから愛するのか?愛するから愛があるのか?

愛がないのなら、愛すればいいだけ

鶏が先か、卵が先かの問題と同じなのですが、「愛があるから愛するのでしょうか?愛するから愛があるのでしょうか?」一見、愛があるから愛するものだとも思えそうですが、決してそうではないと思います。なぜなら、愛するという気持ちとその表れである行動は相互的に作用しており、行動により愛というものが強化されるからです。

ある本にはこのような話がありました。相談者がカウンセラーのところに足を運んでこう言ったそうです。「〇〇さんを愛せないです。」カウンセラーは言いました。「じゃあ、〇〇さんを愛したらいいだけですよ。」相談者は言います。「だから、もう愛する愛はないんですよ。」

それに対してカウンセラーはこう言いました。「愛がないのなら、愛すればいいだけです。愛を行動で表しなさい。感謝の気持ちを行動で表しなさい。それが愛です。」

愛がないなら

僕が若い頃は「愛があるから愛する」と思っていました。だから、信仰生活においても、神様の愛で愛せるように愛をくださいと祈っている時間が長かったように思います。もちろん、その過程も大切だと思います。しかし、生きていく中で、神が求めておられるのは、愛するという意思を固めて、愛する行動をする時に主が働かれるということでした。愛をくださいと祈っているだけでは不十分だと気づかされました。

これは信仰の働きです。「〇〇さんを愛せますように」と祈るのは大切です。また、「〇〇さんを愛せる神の愛をください」と祈るのは大切です。しかし、最終は、自ら決意して愛する行動に移さないといけないのです。

神の博愛

日々生きている中で、僕には愛がないことを知っています。それは自己憐憫で言っているわけではなくて、冷静に本心で思っていることです。愛が著しく欠乏しているのです。それは家族に対しても同じです。たとえ、両親であっても、配偶者であっても、はたまたこどもであっても、自分には家族を愛する愛すらないと自覚しています。もし、家族ですら愛せないなら、周りの人を愛せないのは火を見るよりも明らかです。

もし、主イエス・キリストがおられなかったならば、僕はとっくの昔に自分自身に失望して、自暴自棄になっていたと思います。しかし、神の慈悲と博愛が現わされた時、僕が持っている愛ではなくて、神が与えてくださる愛で生きる希望を与えて頂きました。

見えるところによらないで

今もなお、その途上にあり、現状見えるところによると「お前のどこに神の愛があるのか?」と言われるような始末だと思います。しかし、見えないところで歩ませてください。信仰によって神の愛で愛せる人になりたいと強く願っています。だから、神の愛を下さいと祈りつつ、愛する意志を固めて、行動で表していきます。

おっさん
■すべては神の博愛が現わされた時から始まった

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