0306_イエス・キリストは友、親しき中にも礼儀あり

Contents

イエス・キリストは友達?

以前、仲良くしているクリスチャンの人と軽く議論になったテーマがあります。それは、「イエス・キリストは友達かどうか?」ということです。欧米系のワーシップソングにもJesus is my friendというタイトルの賛美歌があります。僕自身も同タイトルの賛美を作ったことがあり、議論になった時、冷や汗をかきました。欧米のワーシップですと割とポップでキャッチ―なメロディーであったりするので、もしかしたら、友達という言葉に軽い印象を受けてしまうのかもしれません。その方と話をした時は、友が強調されすぎると、神様であるイエス・キリストとの関係を軽々しく思ってしまうことがありうるというのが主な論点でした。

確かに新約聖書でイエス・キリストはこのようにおっしゃいました。

わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
ヨハネによる福音書15:15

また、イエス・キリストはザアカイという孤独な者、つまり、友なき者の友となられたお方です。ですので、イエス・キリストが友達というのは間違っていないと思います。

イエス・キリストはどのようなお方か?

最大の問題は、誰が友になってくださったか?というところです。ここが曖昧になると、世俗の友達観でイエス・キリストを見てしまう危険性があります。この世の共においても、絶対に守られるべき原理原則があって、その中に、「親しき中にも礼儀あり」というものがあります。いくら友達といえども、親友であれども、厚かましすぎたり、一線を越えたり、失礼に度を超したり、礼儀がなくなると、関係が悪くなってしまうものです。

この世の友ですら、このような関係であるならば、神の子であるイエス・キリストが友であるのであれば、なおさらのことです。最後の預言者であるバプテスマのヨハネはこのように言いました。

それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない。
ヨハネによる福音書1:27

当時、ユダヤの習慣では、学生は教師の奴隷だったようです。学生は教師のどのような命令にも服従しなければなりません。しかし、奴隷であっても、学生が教師の靴の紐を解くことは絶対にしなかったそうです。つまり、ヨハネはイエス・キリストに対して、自分は奴隷の価値すらないと言っていたのです。バプテスマのヨハネは旧約時代から続いた律法の時代(行いによって義とされる)の最後の預言者と言われています。今はイエス・キリストの恵みの時代になり、このような最も価値のあるお方が友と呼んでくださるようになったのです。

バランス感覚

よく言われるのは、バランス感覚だと言われています。新約聖書の恵みの背景には旧約聖書の義なる神の存在があるのです。決して行いでは義とされることがなかった人間が恵みにより、義とされ、イエス・キリストが友と呼んでくださっているのです。ですので、驚異的な大きなその喜びを表現するのであれば、ポップになったりキャッチ―になったりするのも当然のような気がします。

キリスト教の神は人間との個人的な関係を大切にしてくださる神様です。個人的な愛の交わりの中に入らせてくださるお方です。この神は求める時に、あるいは一方的に能動的に働きかけてくださり、実際生活の問題に介入してくださったり、キリストのゆるしの恵みによって汚い心の中にも来て下さるお方です。