0557_はじめの愛

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恵みに慣れるもの

人間は環境に慣れる生き物です。例えば現状を変えたくて仕事や居住地を変えても、数年もすれば環境に慣れてしまい、新鮮さを失ってしまいます。それはクリスチャン生活も同じです。無きに等しい者、軽んじられている者、身分の低い者が神様に見いだされました。たとえ愛される存在として驚くばかりの恵みと祝福の中に入れられて言葉に尽くせない感動があったとしても、気をつけないとそれに慣れてしまうのです。

これはとても恐ろしいことです。なぜなら、神の恵みを恵みとして受け取れず、それが当たり前だと思ってしまうのです。さらに、あたかも自分自身の手で手に入れたと大いなる勘違いしてしまうのです。

恵みに慣れると

聖書にも神の恵みを恵みとして受け取れなかった人の話があります。例えば、福音書にある放蕩息子の話に出てくるお兄さんは、まさにその状態に陥っていました。そんな恵みを恵みとして感じられない兄に対してお父さんはこのように言います。

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
ルカ15:31

天の父なる神の恵みや祝福がわからなくなってしまうと、それを受け取れなくなってしまうのです。

思い出すこと

聖書には繰り返し繰り返し、主がなさってくださった恵みを思い見るように言っています。

「義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ51:1

わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
詩篇103:2

恵みが現れた時

今日は礼拝中に説教を聞きながら、自分がどういったところから救われたかに思いを馳せました。クリスチャホームに生まれましたが高校生の時に、パンクロックにはまり、教会よりも友達のほうが大好きで、教会に行っても彼女ができるようにって祈っていました。ずっとイエス様に対して不遜な者でした。

しかし、高校2年生の時にたまたま誘われて奉仕で参加した小学生向けのイベントで賛美を聴いた時に、心が溶かされ、限りない愛をもって愛してくださっているということが強く自分の心に迫ってくる体験をしました。それはこのような賛美でした。

両手いっぱいの愛

ある日イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を 愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる

もいちど イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛しているの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる

ある日イエス様は答えてくれた
静かに両手を広げて
その手のひらに くぎを打たれて
十字架にかかってくださった
それは僕の罪のため
ごめんね ありがとう イエス様

主の霊による

僕がパンクロックが好きだからと言って、パンクロックの賛美で救われたわけではありません。ただピアノ伴奏だけの子供向けの賛美に主が働かれた時、渇いた魂に命の水が沸き上がってきたのです。

僕には、伝道にはやっぱり流行りのジャンルが必要だという気持ちが少なからずありました。しかし、人が救われるに人の努力や能力は必要とされません。主に捧げられた器とそれに満ちる聖霊が救いをもたらしていくんだと強く思わされました。

万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
ゼカリヤ4:6

おっさん
■人間は思い出さないと恵みに慣れてしまう

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