0719_祈られることも幸いだが、祈るほうがもっと幸い

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とりなしの祈り

30代後半にして、今更ながら、ようやく「とりなしの祈り(誰かのために祈ること)」の味が少しづつわかってきました。聖書には愛がなければすべてはむなしいと書かれています。たとえ、命を投げ出す犠牲的な行動があったとしても、愛がなければ虚しいと言うのです。愛はすべからず、神様との個人的な交わりの中で育まれるものです。

僕自身は自己中なので、自分と神様との愛の関係ばかり重視していて、その交わりばかりを求めていたように思います。しかし、そのような祈りを重視する中で直面したことは、「周りの人に対する愛がなく、決意もなく、行動もない」ということでした。

なぜとりなしの祈りか

僕に愛がないことは重々わかっていたので、行動を変えることにしました。まずは教会の週報に記載されている祈祷課題を切り取ってデボーションノートに貼り付けました。そして、周りの特に覚えて祈らないといけない人の名前を書き込んで、その人のために祈るようにしました。

とりなしの祈りの時間を持つ中で、自己中な僕にでさえ、わずかな愛が芽生えるようになる体験をしました。それはまだまだ握れば潰れるような小さな愛かもしれません。しかし、その愛の実をとりなしの祈りの中で大きくしていけば、きっと、周りに変化が訪れるだろう!という確信がやってきたのです。

思わぬ副効果

とりなしの祈りを本格的に始めてそれだけでも大きな収穫だったのですが、それ以外にもいい副効果がありました。それは自己整理において「自分の悩みなんて大したことない」という認識です。いろいろな人のために祈っていると、日々自分が感じていることはとても些末なことで、小さなことだと思えました。

周りの人はこんなに大変なのに、なぜ僕はこんな小さなことでこんな偏狭な心で生きているのだろうと思うようになったのです。本当に自分が固執していることやこだわりは小さいゴミみたいなものだと思えたのです。

祈っていますと言いたい

「お祈りお願いします」というよりも「お祈りしています」と言える者でありたいです。なぜなら、これまで十分すぎるほどに祈られてきたからです。これからは祈る番です。30代後半にしてようやく気づいたので遅すぎましたが、こからは祈る者になります。

おっさん
■祈られることも幸いだが、祈るほうがもっと幸い

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