1531_自分の姿を見て嘆くのではなく、いかに主が素晴らしいお方であるかを見て賛美する

人と比較しても何にもならない

別にクリスチャンでなくても、「人と比較しても何にもならない」ということを言われます。そういわれるのは、人はなぜか、どうしてか人と比べてしまうからです。人は生まれてから程度の差はあれど、競争社会の中に放り込まれ、偏差値で学力を評価され相対的にあなたがどうなのか?という環境の中で生きています。

自分がどう思っていてもその人と比べて自分はどうなのか?という自問は骨の髄までに沁み込んでいて、意識せずともそう思ってしまうというような状態なのだと思います。そして一喜一憂、無意味な優越感や劣等感を感じて、砂の上に立つような不安な気持ちをぬぐえないままでいるのです。

あなたは私に従ってきなさい

しかし、聖書は一貫して、信仰の導き手でありその完成者であるイエス・キリストを見上げなさいと教えています。つまり、人を見ずに神をみなさいということを教えています。

イエス様が復活していよいよ天に帰られるとなった時に、ペテロは自分の将来がどのようになるのかをイエス様に告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」とイエス様に聞きました。しかし、イエス様の答えは「それはあなたには関係ない。あなたは私に従ってきなさい。」とだけおっしゃいました。

確かに主は「人を見るな」とおっしゃっています。そして、他人はどうであれ、あなた私に従ってきなさいという言葉を今も僕たちに語りかけてくださっています。

主は素晴らしいお方

確かに人は人と比べても惨めになるか?あるいは、はかなく消えていく虚しい優越感しか得ることができません。しかし、人が神の前に立つときに人は本当の自分の姿を知ります。それは、一見ネガティブなようにも思えますが、自分の真の姿を知るのは、主がどれほど素晴らしいお方であるかを知ることができるからです。

だから、自分が神の前にいかに弱く、卑しく、虚しく、汚い者であるかを嘆く必要はありません。ただ主が素晴らしいお方、賛美を受けるにふさわしいお方、感謝を受けるにふさわしいお方だと知ればいいのだと思います。

主の聖さ

「主を知る」ということの中で主の栄光を霊の目で見るということもあると思いますが、最も素晴らしいのは主の聖さを知るということだと思います。モーセもイザヤも主の前に出た時に主の聖さにふれました。そして、その時に初めて自分の姿を知ったのです。

最近は「変わること」と「きよめ」に関して書いていましたが、主の聖さをもっと知りたいと強く願っています。

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