1182_「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」の意味

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聖書を読んでいてわからない時どうする?

おそらく多くのクリスチャンや教職者の方には抵抗感があると思いますが僕は聖書を読んでわからなかった時にGPT-4oで確認することをたまにしてます。ここで先に伝えておきたいのはAIは完全ではなく間違った回答をする可能性があります。また無料版のChat-GPTは特に間違いが多いことも事実です。

しかし、比較的精度の高い回答をしてくれるGPT-4oを補助的に使うのはかなり有効であると感じています。最近はルカによる福音書を読んでいるのですが、イエス様のたとえ話がよく理解できないことがあります。そういった時に補助的に活用しています。

死体のある所には、またはげたかが集まるものである

例えば、皆さんはルカによる福音書17章の最後に書かれているこのイエス様の言葉の意味がわかるでしょうか?

弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。
ルカによる福音書17:37

僕はずっと「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」の意味がわからずに読んでいました。聖書を読んでいてわからないところがあったとしても、注解書ももっていないし、いつもわからないままでいたのです。しかし、GPTがあれば通勤途中に聖書を読んでいる時にシームレスにすぐに確認することができます。

ベストは牧師先生に聞くこと

聖書でわからないところがあった場合、所属している教会の牧師先生に聞くのがベストです。しかし、牧師先生はただでさえ忙しく、また難解な箇所を質問して困らせるのかもしれないと思うとなかなか質問しにくいと感じてしまいます。

また、Google検索にしても、僕が書くブログのようにどこの誰が書いたかもわからないような解説をうのみにするのもどうかと思われます。そうする場合は、複数のブログからクロスチェックをかけて、書いた牧師先生がどこの神学校を卒業して、どういった流れの教団に属しているのかなどを調べないと、とんでもない解釈をうのみにしてしまう可能性があります。実際Web上には変な解釈が多いです。

GPTによる回答

その点、GPTはかなりバランスのとれた回答を論理的にしてくれています。以下はGPTによる回答です。

GPTによる回答(引用)

「死体のある所には、はげたかも集まる」というイエスの比喩は、一見すると謎めいていますが、文脈から考えると重要な意味を持っています。

意味の解釈

確実性の象徴:

はげたかが死体に集まるのは自然界の確実な現象です。これは、終末の日が確実に訪れることを示しています。つまり、イエスが警告している終末の日や裁きは、必ず来るということを強調しています。

見逃せない徴候:

死体があれば、はげたかが必ず現れるように、終末の日には明白な徴候があるということを示唆しています。この比喩は、終末の日が来るとき、それを見逃すことができないほど明確な兆候があることを示しています。

裁きの不可避性:

はげたかが死体に集まるように、終末の日には逃れられない裁きが待っていることを示しています。この比喩を通じて、イエスは人々にその日が突然来ることを警告し、準備するよう促しています。

文脈での理解

この比喩は、終末の日の突然性と不可避性を強調しています。前の節では、ノアやロトの時代のように、普通の日常生活の中で突然終わりの日が訪れると警告されています。それに続いて、この比喩が使われることで、終末の日が来たとき、それが逃れられないものであること、そしてその兆候が明確であることを再度強調しています。

結論

「死体のある所には、はげたかも集まる」という比喩は、終末の日が確実に、そして突然訪れることを示すために使われています。これは、信者に対してその日が来る前に準備をし、心を整えるようにと促すメッセージです。イエスの教えは、物質的なものに執着するのではなく、内面的な信仰と準備を重視することの重要性を伝えています。

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