1289_親の期待に応えるために忖度して洗礼を受けてほしいとは思わない

時間はすぐに過ぎ去る

数か月前に僕はこのブログで自身の子供がまだ主に出会う体験をしていないので焦っていると書きました。

1225_2歳の子供がまだ救われていないので焦っている
まだ子供は2歳3か月ほどなので何を焦る必要がある?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、往々として、「まだ」と言っている間に時間はあっという間に過ぎ去って子供は自立して親から離れていくものなのです。

親の愛は不完全で不十分

僕は17歳の時にイエス様に出会う体験をしましたが、子供にはそれ以上にもっと早くイエス様に出会う体験をしてほしいと願っています。それは自分が如何に愛されている存在であるかを知ってほしいからです。

自身の経験から言っても親の愛は不完全で不十分です。不完全な愛で子供を育てることはできません。必要なのは完全な愛です。それこそがイエス様の十字架です。

全知全能の主ご自身

親は子供のすべてを理解して行動するこは不可能です。しかし、全知全能の主ご自身を知れば、子供自ら主を頼るようになります。イエス様の愛を一度知れば、その愛が人生の原動力となってこの人生を意味あるものとして生きることができるようになります。

たとえ、一人の時でも誰かといる時でもイエス様が共にいてくだされば、そこには言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びが満ち溢れます。

今僕ができることは切実さをもって祈ることだけです。そして、それは自分の子供だけのためではありません。教会に来ている一人ひとりの子供がイエス様に出会って、どれだけ自分が愛されている存在であるかを知ってほしいと祈っています。

告白して救われる

もしかしたら、ある人は洗礼を受けることによって救われると思っているかもしれません。こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、厳密に言えば洗礼を受けたら救われるというものではありません。

聖書にあるとおり救いとは心に信じて義とせられ、告白して救われるものです。それは個人的に心に起こるものであり、それはイエス様との出会いによって救われるのです。

そうは言っても、洗礼式も絶対必要です。なぜなら洗礼を受けたいという決心そのものが信仰告白だからです。洗礼式は公に信仰告白する場であり、イエス様に従っていく決心をした以上、イエス様が模範として洗礼を受けられたように自分も受ける必要があるからです。

親の期待に応えるために忖度して洗礼を受けてほしいとは思わない

そう考えているからこそ、自身の子供が親の期待に応えるために忖度して洗礼を受けてほしいとは思いません。だからこそ、早い段階で心においてイエス様と出会う体験をしてほしいと願っています。

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