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大きな傘を持っておられるお方
神様は良いお方なのに、なぜこんなにも人生には悲しみや苦しみが満ちているのだろう。これは誰もが思ったことがあることだと思います。それに対して、僕はこれまで明確な答えをもっていませんでした。天国に行った時にすべての意味がわかるくらいに考えていました。
しかし、ある牧師先生がこのようなことをおっしゃっていて目から鱗でした。
「あなたが大雨が降る中、傘も持たずにずぶ濡れになっていたとします。そんな中でも、すぐそばには大きな傘を持ったイエス様が入っておいでとおっしゃっている。もし、その傘に入ろうとしないなら、あなたはずぶ濡れのままなのだ。」
傘の中に入ることを選びますか?
イエス様の救いは2000年前に既に十字架上で完成しています。そして、イエス様は過去の人物ではなく、確かに復活され、今も生きて動き、共にいてくださるお方です。しかし、救いは既にあっても、イエス様のところに行かなければその救いにはあずかれないのです。そこに信仰が必要になるのです。
イエス様なんかいらないという気持ちや馬鹿らしいや所詮宗教でしょなどの自分の中にある価値観を捨てて、「もしイエス様が本当に救い主なら自分もお会いしてみたい」という気持ちからすべてが始まります。
そして、その「予感」が主を求めていく中で「実感」に変わり、そして主にお出会いした時にそれが「確信」にかわります。このお方は確かに今も生きておられ、共にいてくださる。そして、愛と恵みと憐れみに満ちたお方と交わることがどれほどすばらしいことかを体験するのです。
昔は傘の中に入っていたが
もし、僕自身が過去にそういった体験をしたからと言っても、今主に近づくことをしていないならば、イエス様との関係は冷めきっているとしか言えないでしょう。日々、主は人生の大雨の中、傘を持って「おいで」とおっしゃってくださっています。もし、僕が日々の選択の中で、主の傘の中に入ることを選ばないならば、僕は主から離れて生きているのです。
ですから、アダムとエバの時代から現代においても、人間に求められているのは、日々、主を求めるか?自分の生き方を求めるか?の二択です。なぜなら、イエス様だけが、過去も現在も未来永劫変わることのないお方で、いつでも愛と恵みと慈しみと祝福に満ちておられるお方だからです。
もし僕が日々の生き方に何か不満足や違和感を感じているのであれば、主を選ぶことをしていない時だと言えます。だから、今日も主だけを選ぶと叫びます。