自分が救われる前にどうであったか?
僕が尊敬している牧師先生はよく説教で「自分が救われる前にどうであったか?」ということをよく話されます。救われる前の悲壮なエピソードがいくつかあります。聞いている者からしたら「またこの話か」と思ってしまうこともあるのですが、先日はこのように思わされました。
それは、「信仰生活において定期的に救われる前の自分の姿を思い出すことは必要なことだ」ということです。僕はその先生のエピソードを聞く度に、自分が信仰の原点に立ち返ることができていることを知ったのです。
数えてみよ主の恵み
もし、「自分がどのようなところから救われたのか?」というのを思い出さない、あるいは、忘れてしまうなら、今の状態が当たり前と思ってしまう危険性があります。これは意外に簡単に恵みからもれてしまう結果になります。賛美歌には「数えてみよ主の恵み」とありますが、主の恵みを数えることは信仰生活において必須なのです。
あまたの恵みの中で最たるものは救いの恵みです。だからこそ、この救いの恵みを何度も数えることは魂にとっていいことだと思うのです。なによりも聖書にもそうすることが正しいと記載されてもいます。
義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ書51:1
掘り出された穴
切り出される前は荒野で何の役にもたたないただ岩の一部だったのです。それが自分が救われる前にいたところです。旧約聖書でいえば、そこはエジプトでありこの世に属するところともいえると思います。しかし、主が選んでくださって召してくださったことにより、岩から切り出され、今では主の御手の中に握られているのです。
僕はそのことを思った時に、この御言が思い浮かびました。
あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。
創世記32:10
すべて主の恵み
本当にこのとおりです。主は僕がまだ罪びとであった時に愛してくださり、ご自身の命を捧げてくださったのです。またそれだけはありません。最も大きな魂の救いを与えてくださっただけでなく、救われてからもずっと大きな恵みの中を歩ませてくださっているのです。今もっているものも、すべて主の恵みによって与えてくださったものです。
本当の心の底から思うのです。
「主よ、僕はあなたが与えてくださったものを受けるに足りない者です。」