救われたのはなんのためか?
聖書には「真理はあなたがたに自由を得させる」という言葉があります。さらに、「あなた方が召されたのは自由を得るためである」ともあります。キリストにより救われたのは自由になるためなのです。ここで一つの疑問が生まれます。クリスチャンは果たして「自由なのか?」ということです。
もし「自由」を何をしてもいい状態と定義するなら、クリスチャンは自由ではありません。しかし、何にも縛られていない状態と定義するなら、キリストにあってクリスチャンは自由になれます。
何から自由になるのか?
具体的には何からの自由でしょうか?僕は日常生活を送る中で縛られそうになることがあります。時には一定期間縛られていることもあります。しかし、もし聖書の言に帰りキリストに立ち返るならば、主にあって自由を得ることができることを体験しています。
僕はよく不平や不満に縛られます。人をゆるせない気持ちに縛られます。人を愛せないことに縛られます。自分の不寛容さに縛られます。自分の心の小ささに縛られます。
しかし、こういった自分が縛られている状態を聖書を通して自分を客観視して、自覚するならば、主に立ち返ることができます。勇気をもって信仰をもってこう宣言するのです。「私はキリストにあって、○○さんをゆるします」、「私はキリストにあって不平不満を言いません」と信仰をもって言うと、そういった自分を縛っていた心が自由になるのです。
自由じゃない僕
ぼくは、割とのほほんと生きているほうですが、なかなか付き合うのが難しいなと思う人もいます。実際に人格を否定するような強烈な一言を言われたり、やる気をそぐような状況にする人もいます。個人的にはそういう人とは距離をおきたいし、付き合いたくもないし、顔も合わせたくないと思います。
しかし、そういった気持に僕は縛られてしまっているのを知っています。聖書にあるとおり、「兄弟を憎む者は闇の中を歩いている」のです。イエス様は僕がこういった気持ちから開放されるようにも十字架にかかってくださったのです。
信仰によってすでに自由なのだ
もし、僕が苦手だなと思う人から離れようとすなら、もはやクリスチャンじゃありません。しかし、信仰によってキリストにあってこの縛られている気持ちから解放してくださる。いや、すでに十字架の上で僕のこの愛のない罪の性質は取り除かれたのです。
なぜなら、イエス様が「すべては完了した」とおっしゃってくださったからです。ここ数日はとってもやる気をそぐ人を愛せなくて苦しんだのですが、「イエス様によってゆるします」と宣言できてとても感謝でした。