日本には厄年というものがあります。男女それぞれ一生の間に3回厄年というものが訪れ、前厄・本厄・後厄で1回あたり期間は3年で、本厄が最も災厄が多い年となるそうです。
厄年(やくどし)は、日本などで厄災が多く降りかかるとされる年齢のことである。科学的な根拠は不確かで、陰陽道由来とされるものの出典は曖昧である。しかし、平安時代にはすでに存在し、根強く信じられている風習である。
僕は信じていませんが、25歳の時は、あわや、厄年を信じそうになるほど様々なことが起こりました。
25歳(本厄)の1年のうちに、住んでいたアパートが火災に見舞われたり、バイク事故を2回起こしたり、車で対物事故を1回起こしました。さすがに、1年間でこれほど密度の濃い災難は経験したことがなかったので、少し慌てましたが、厄年だとは思いませんでした。
ダビデ像で有名なダビデは聖書の中で、下記のような経験をしました。
当時、ダビデ王は、ある事情により、家来を率いて行軍していました。その時、シメイという名の人が近づいてきて、ダビデ王や家来に石を投げつけはじめました。
この時、ダビデの実子であるアブサロムが王に対して反旗の狼煙を上げ、ダビデ王を殺害しようとしていました。ダビデ王は子に命を狙われていたわけです。シメイ曰く、ダビデは神が立てた王ではなくて、多くの血を流した。だから、災いに遭うと言って呪いました。
シメイの言う通り、普通、神様が立てた王であるなら、「なぜ、その王の実子が反逆するのか?」「なぜ、命を狙われるのか?」「なぜ、神はダビデを助けないのか?」と思ってしまいそうになります。
しかし、そんなシメイに対してダビデ王はこのように言います。
ダビデは、今起こっていることは、すべて神がゆるされたこと、という信仰がありました。神がシメイに呪うことを許したから呪われる。さらに、神様がその呪いを祝福に変えてくださる方であることも信じていました。ダビデ王はこのような詩を書いています。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩篇23:6(口語訳)
ちまたでは、ポストコロナ、アフターコロナとコロナ後の世界について議論がされています。大切なのは、コロナ前後ではなくて、キリスト前後です。ADは、ラテン語でAnno Dominiの略で、主(イエス・キリスト)の年という意味です。
ですので、厄年も関係ありません。主の年に生きるものは、キリストの恵み中に入れられ、必ず恵みといつくしみが追ってくると信じます。