声に出さない祈り
昨日は祈りほどクリスチャンによって理解が異なるものはないと書きました。
「声に出して祈る」ひとつとっても場所や方法や内容も人によってことなります。さらに、祈りに費やす時間こそが人によって全く違うとも強調しました。今日は「声に出さない祈り」について書きたいと思います。
前回も書きましたが僕はペンテコステ体験を経て主に出会いました。つまり、声を出して異言で祈るのが僕の祈りのスタンダードだったのです。しかし、そこから「声に出さない祈り」もするようになりました。それはこのような体験をしたからです。
異言で祈るのが僕の祈りのスタンダードだった
僕はクリスチャンの中でもだいぶ風変りのタイプだったので、一人で裏山に行っては自然の中で祈るということをよくしていました。礼拝が終わってから一人で行くこともあれば、休みの日に行くこともありました。仕事を辞めて転職活動中で時間がありスチャンによって理解が異なるものはないと書きました。「声に出して祈る」ひとつとっても場所や方法や内容も人によってことなります。さらに、祈りに費やす時間こそが人によって全く違うとも強調しました。今日は「声に出さない祈り」について書きたいと思います。
前回も書きましたが僕はペンテコステ体験を経て主に出会いました。つまり、を声出して異言で祈るのが僕の祈りのスタンダードだったのです。しかし、そこから「声に出さない祈り」もするようになりました。それはこのような体験をしたからです。
山に行って祈る
僕はクリスチャンの中でもだいぶ風変りのタイプだったので、一人で裏山に行っては自然の中で祈るということをよくしていました。礼拝が終わってから一人で行くこともあれば、休みの日に行くこともありました。仕事を辞めて転職活動中で時間があり余っている時に人知れず山に行って祈っていました。
一年ほど前も一人時間が与えられた時に山に行って祈りました。僕はそこでは異言では祈りません。暗唱している詩篇を声に出して主を賛美することがあっても、ほとんどは声に出さない祈りをします。せいぜい、イエス様、天のお父様と語り掛けるくらいです。
主と僕とのデートの時間
そのような静かな時間を自然の中で過ごすのです。これが僕の声に出さない祈りの原点です。何か課題があるわけでもない、何か願望があるわけでもない、ただただ主と静かに交わりたい、主と共にいたい、主からの語りかけをききたいという姿勢でします。言い換えればこれは主と僕とのデートの時間なのです。













