クリスチャンごっこ
昨日は、僕の信仰は全く聖書に書いてある信仰のようではないと書きました。それはあたかも自身がクリスチャンごっこをしているような気分にさえなってきます。宗教的な行いはもう十分だと思います。昨日も書いたように「迫害する者のために祈れ」や「敵を愛しなさい」という言葉は僕には全く響いてきません。なぜなら、僕は迫害もされていないし、敵という敵もいないからです。
また、どれほど本気でキリストに従おうと思っているのか?とも自問しました。「キリストに従おう」それは素晴らしいことです。しかし、キリストに従うとはどういうことでしょうか?キリストのこの地上での歩みは痛み、悲しみ、裏切り、孤独、肉体的、精神的、霊的な痛みの極みでした。その中における福音宣教の恵み、それこそがキリストの歩みです。
へりくだり
少し話はずれますが、聖書の原則は「へりくだり」です。へりくだりは悔い改めであり、キリストの救いを受け入れることの条件です。悔い改めは信じた時に一回して終わりではなくて、日々の小さな悔い改めから、主の取り扱いを受ける中で導かれる節目節目で気づかされる悔い改めもあります。
僕が思ったのは、キリストの苦しみこそが「へりくだり」の道ではないか?と思ったのです。
へりくだりに関する多くの記述
聖書にはへりくだりに関する多くの記述があります。
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、 その名を聖ととなえられる者がこう言われる、 「わたしは高く、聖なる所に住み、 また心砕けて、へりくだる者と共に住み、 へりくだる者の霊をいかし、 砕けたる者の心をいかす。
イザヤ書 57:15
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
詩篇51:17
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。 12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
マタイ23:11
へりくだる前の一つの条件
僕はずっとクリスチャン信仰の秘訣が「へりくだり」にあると知っていました。その知識はずっと持っていたのです。しかし、へりくだりの前には一つの条件があります。それはキリストに従うということです。それは、つまり、キリストの苦しみにあずかるということです。その苦しみは人を神の前にへりくだりに導きます。
そして、本当のへりくだりからのみ主はその者の霊を生かし、心を生かすことができるのだと思います。