1510_前提としてクリスチャンであっても「肉の目で物事を見てしまう」という弱さをかかている

各種法則に基づいた自然の結果

自分の周りで起きていることは、見えるところによると確かに原因と結果の原則に基づいていたり、各種法則に基づいた自然の結果であるように思います。それに対して人間は何もできないと思うようなことがあります。しかし、それは肉の目で目た時にそう見えるだけである場合が多いです。

もしかしたら、聖書に記載されているものは、ほとんど肉の目で見たか?霊の目で見たか?に集約されるかもしれません。信仰者は霊の目で見ました。一方、不信仰な者は肉の目で見ました。それによってすべてが決したのです。

霊の目で物事を見た

信仰の父であるアブラハムは肉の目でみませんでした。また、各種法則に基づいて物事を見ませんでした。この世界の常識、当たり前、もっともらしいと思えることを信じなかったのです。むしろ、アブラハムは霊の目で物事を見たのです。それは聖書にこのようにかかれています。

彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
ローマ人への手紙 4:18-21

心の目を開いてください

霊の目で物後を見ることに関しては書けばきりがありません。たとえば、エリシャは霊の目で見ました。彼には天の軍勢が見えていましたが、肉の目で見た人には見えませんでした。しかし、肉の目で見た人も、霊の目が開かれた時にその天の軍勢が見えました。

こういった記述は僕たちに何を教えてくれているのでしょうか?それは前提としてクリスチャンであっても「肉の目で物事を見てしまう」という弱さをかかているということです。誰であっても主に「私の心の目を開いてください」と言わなければ霊の目で物事を見ることはできません。これは人にへりくだりを要求するものです。なぜなら、人は「自分は見えている」と思いたいものだからです。

霊的な戦い

次に、霊の目で見ることでわかることがあります。それはすべて霊的な戦いであるということです。見えるところは霊的な戦いはないと思っていても霊の目で見た場合、すべては霊的な戦いであることがわかります。なんだ、スピリチュアルか?と思われるかもしれませんが、神は霊であるから信仰者の戦いも霊的なものです。

明日は霊的な戦いについて続けたいと思います。

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